尖閣諸島に関する地図論爭、中國には日本を論破する100の方法がある―中國メディア

Record China    2015年3月10日(火) 1時29分

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8日、1969年発行の中國地図を基に「尖閣諸島は日本の領(lǐng)土である」と主張しようとする日本に対し、中國メディアは反論記事「釣魚島の地図論爭、中國には日本を論破する100の方法がある」を掲載した。寫真はアジアの舊地図。

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2015年3月8日、1969年発行の中國地図を基に「尖閣諸島(中國名?釣魚島)は日本の領(lǐng)土である」と主張しようとする日本に対し、中國紙?人民日報海外版は清華大學當代國際関係研究院の劉江永(リウ?ジアンヨン)副院長による反論記事「釣魚島の地図論爭、中國には日本を論破する100の方法がある」を掲載した。以下はその概要。

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日本の最近の報道によると、自民黨議員が1969年の中國地図に釣魚島が沖縄県として記載されていることを発見し、これを受けて外務省はこの地図をホームページなどで公開する予定だという。

筆者はこれまでに古今の地図100種類以上を見てきたが、地図への記載という観點から見れば、釣魚島が中國領(lǐng)であることに疑いの余地はなく、一部の地図だけに基づいて事実を変更することは不可能である。

釣魚島に関する地図は、中國と古代琉球王國、日本、歐米の4つの部分に分けることができるが、筆者の考証によれば、これらの地図の大部分は釣魚島が中國に屬していることを証明している。

中國の明代(1368?1644年)と清代(1644?1912年)の古代地図や海防図には釣魚島列島が描かれているが、1372?1897年の古代琉球王國の地図には、釣魚島が琉球王國に所屬するとの內(nèi)容は一切記されていない。

また、1894年の日清戦爭以前には、釣魚島を日本の領(lǐng)土として描いた日本の公式地図はほとんど存在しない。一方で、日本の林子平が1785年に記した「三國通覧図説」の付図「琉球三省并三十六島之図」や、山田聯(lián)が1810年に描いた「地球輿地全図」などには、釣魚島が中國領(lǐng)であることが明確に描かれている。さらに、日本軍統(tǒng)治下の1894年3月に発行された「沖縄県管內(nèi)全図」や日清戦爭後の1895年5月に修正?発行された同図でも、釣魚島は沖縄県の管轄外に區(qū)分されている。

一方、釣魚島に関連する歐米の古代地図は、主に次の2つの地図の影響を受けている。1つはフランスの古代地図で、これは中國清代の官吏?徐葆光(シュー?バオグアン)が記した「中山伝言録」の影響を受けており、中國南部の方言の発音による釣魚島の名稱が記載されている。そして、このことが歐米全體の釣魚島に対する名稱の発音に影響を與えた。

もう1つは、1845年に英國の軍艦「サマラング號」が調(diào)査した後に作成された地図や1894年に英國海軍が修正?再版した地図などで、これら英國の公式地図には、釣魚島は「臺灣東北の諸島」と明確に記載されている。

日本政府は釣魚島を秘密裏に調(diào)査した1885年以前に英國の公式な地図や文獻によって釣魚島が中國に屬することを知っていたにもかかわらず、何ら異議を唱えてこなかった。このことは、釣魚島が臺灣の付屬島嶼に屬することを黙認したに等しい。これらの地図は、中日間で釣魚島論爭が始まる前に、釣魚島が中國に屬することに議論の余地がなかったことを十分に証明している。

また、釣魚島は臺灣東北部の島嶼であったため、日本が臺灣を統(tǒng)治した1895?1945年までは當然日本の統(tǒng)治下に入っており、この期間に作成された地図やいわゆる「感謝狀」、日清戦爭後に結(jié)ばれた不平等な「下関條約」などは効力を持たないと見なすべきである。

1945?1971年、琉球諸島は米國の占領(lǐng)下にあったため、日本の地図には現(xiàn)在の沖縄県は含まれていなかった。1970年以降になってやっと、日本は地図上に「尖閣諸島」を記載し始めた。

以上のことから明らかなように、「この期間中の臺灣に関する中國の地図に釣魚島が中國領(lǐng)であることの明記がない。従って釣魚島は日本領(lǐng)である」との論法は成立しない。(翻訳?編集/秋田)

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