Record China 2015年3月19日(木) 7時(shí)36分
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16日、北京市文物局は北京市大興區(qū)で後漢から遼金の時(shí)期にかけての古墳群、合計(jì)129カ所を発見したと明らかにした。
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2015年3月18日、新京報(bào)によると、北京市文物局は16日、北京市大興區(qū)で後漢から遼金の時(shí)期にかけての古墳群、合計(jì)129カ所を発見したと明らかにした。これらの古墳は発掘數(shù)の多さや年代の幅、古墳の保存狀態(tài)のよさなどで最近の北京地區(qū)の考古においては珍しいものとなる。目下、古墳54カ所がまだ発掘されていないが、5月末から6月初めには発掘作業(yè)が完了する見通しだ。
【その他の寫真】
北朝の古墳からは銘文の刻まれたレンガが出土し、墓の主人が「韓顕度」という名前で、本籍は楽浪郡朝鮮県、元象2年(539年)に埋葬されたことが刻まれている。墓の主人の本籍の楽浪郡は前漢の漢武帝が現(xiàn)在の朝鮮半島に設(shè)置した四つの郡の一つで、現(xiàn)在の北朝鮮?平壤に位置する。
衛(wèi)氏朝鮮の遺民がなぜ大興に埋葬されているのだろう?史料の記載によると、北魏の太武帝拓跋▲(▲=壽にれっか)が北方統(tǒng)一の途中、「朝鮮の民を肥如へ移し、朝鮮県を再び置いた」という人口移住を行っていた。肥如は現(xiàn)在の秦皇島市に位置し、県には現(xiàn)在の昌黎、盧竜南部、西部、遷安県一帯が含まれる。朝鮮県は現(xiàn)在の盧竜県東部にあり、北京に近い。
これら朝鮮人移民は中國(guó)に移った後、自分の本籍を殘していた。東魏の時(shí)代になって●城(●=業(yè)におおざと、現(xiàn)在の河北省臨◆県、◆=さんずいに章)に都が移り、北京の大興は北方住民が南下して首都?●城へ行く際に必ず通る場(chǎng)所となったため、東魏時(shí)期の古墳が発見されるのも自然の流れとなる。(提供/人民網(wǎng)日本語版?翻訳/YH?編集/武藤)
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