「中國人が『侵略者の子ども』である私を育ててくれた」=日本人がつづった戦爭の悲慘さと善良な中國人―中國メディア

Record China    2015年6月24日(水) 17時50分

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22日、新華社通信は、中國殘留孤児だった中島幼八さん(73)が自身の體験をつづった著書、「―中國殘留孤児がつづる―この生あるは」を紹介し、中島さんのインタビューを掲載した。資料寫真。

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2015年6月22日、新華社通信は、中國殘留孤児だった中島幼八さん(73)が自身の體験をつづった著書、「―中國殘留孤児がつづる―この生あるは」を紹介し、中島さんのインタビューを掲載した。同書の中國語版は7月1日に出版予定。

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中島さんは東京に生まれ、1歳の時に両親や姉と中國?黒竜江省に渡った。1945年に父が従軍するもその後連絡(luò)が取れなくなり、同年日本が敗戦すると中島さん一家は難民となった。同年冬に中島さんの妹が誕生したが、栄養(yǎng)失調(diào)で命を落としてしまった。弱っていく中島さんを母親はやむなく知人の中國人に託し、この中國人が中島さんの引き取り先を探した。

中島さんをふびんに思った現(xiàn)地の農(nóng)民女性の孫振琴(スン?ジェンチン)さんは、侵略者である日本人の子どもと知りながらも、ためらうことなく引き取ったという。中島さんは16歳だった1958年に日本に戻るまで、13年間に渡り養(yǎng)母や養(yǎng)父から愛情を注がれ育った。

日本に戻った中島さんは母親や姉と再會。脇目も振らず勉強した結(jié)果、條件の良い就職先に勤めることができたが、日中友好協(xié)會に入った。その後通訳者となり、定年まで日中交流に盡力した。

中島さんは養(yǎng)父母について、「私の養(yǎng)母は心が水のように澄んだ人だった。全く汚れていなかった。養(yǎng)父母は何の目的もなく、『侵略者の子ども』である私を育ててくれた」と聲を詰まらせ語った。

自身の著書について中島さんは、「私がつづったのは、最も素樸な中國の庶民。彼らの生活はとても貧窮していたが、それでも私を引き取ってくれた。彼らはただ善良だったのだ」と話し、中國人への恩返しと、日本人に本當(dāng)の中國人を理解してほしいとの気持ちから執(zhí)筆を決心したと明かしている。(翻訳?編集/內(nèi)山)

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