八牧浩行 2015年8月10日(月) 6時(shí)0分
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福永文夫?獨(dú)協(xié)大教授は日本記者クラブで、今年の読売?吉野作造賞を受賞した『日本占領(lǐng)史 1945-1952 東京?ワシントン?沖縄』(中公新書)について講演。日本の求めに応じて、憲法の戦爭(zhēng)放棄條項(xiàng)と引き換えに、天皇制は象徴天皇として存続することになった、との見方を明らかにした。
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2015年8月7日、福永文夫?獨(dú)協(xié)大教授は日本記者クラブで、今年の読売?吉野作造賞を受賞した『日本占領(lǐng)史 1945-1952 東京?ワシントン?沖縄』(中公新書)について講演。日本の求めに応じて、憲法の戦爭(zhēng)放棄條項(xiàng)と引き換えに、天皇制は象徴天皇として存続することになった、との見方を明らかにした。三角大福(三木武夫?田中角栄?大平正芳?福田赳夫)の歴代內(nèi)閣が憲法9條と三角大福を守り平和國(guó)家の道を志向し、中韓米などからの日本は軍事大國(guó)化するとの疑念を払しょくした、と指摘?!袱饯握n題が今問われている」と強(qiáng)調(diào)した。発言要旨は次の通り。
【その他の寫真】
日本は1945年の敗戦後、マッカーサーを頂點(diǎn)としたGHQ(連合軍総司令部)の支配下に置かれた。GHQの日本占領(lǐng)は1945年8月から7年近くに及び、この間の多岐にわたる政治?行政改革が、獨(dú)立後の日本に多大な影響を及ぼした。
當(dāng)初、占領(lǐng)政策は非軍事化?民主化を推進(jìn)した。1946年初頭、GHQと日本政府との間で憲法を巡って行われた交渉の結(jié)果、國(guó)民主権、戦爭(zhēng)放棄、基本的な人権の尊重などを骨子とする、平和主義を追求した憲法草案が作成された。憲法の戦爭(zhēng)放棄條項(xiàng)と引き換えに天皇制は象徴天皇として存続することになった。それは當(dāng)時(shí)の幣原喜重郎首相や吉田茂外相らが求めていたものであり、だからこそ受容したと言える。
公職追放など経済民主化も民政局主導(dǎo)で推進(jìn)されたが、その後ワシントンから調(diào)査団が派遣され、占領(lǐng)政策の方向を徐々に変えていった。米ソの冷戦構(gòu)造が深まる中、共産主義の拡大への懸念から、日本を「反共親米」にするため、対日政策の重點(diǎn)は改革から経済復(fù)興へ転換した。51年、朝鮮戦爭(zhēng)の最中に結(jié)ばれたサンフランシスコ講和條約は日米安保條約とセットの締結(jié)となった。
吉田元首相は、憲法が日本國(guó)民に受け入れられておりGHQに押し付けられたものではないとの認(rèn)識(shí)を持っていた。著作にも憲法について悪いことは一切書いていない。
60年代後半には日本が軍事大國(guó)化するのではないかとの疑念が中國(guó)、韓國(guó)などアジア諸國(guó)だけでなく米國(guó)にもあった。経済大國(guó)化は軍事大國(guó)につながるとの発想からだが、70年代に三角大福(三木武夫?田中角栄?大平正芳?福田赳夫)の歴代內(nèi)閣が憲法9條と非核3原則を守り平和國(guó)家の道を志向し、疑念を払しょくした。その課題が今問われていると思う。(八牧浩行)
■筆者プロフィール:八牧浩行
1971年時(shí)事通信社入社。 編集局経済部記者、ロンドン特派員、経済部長(zhǎng)、常務(wù)取締役編集局長(zhǎng)等を歴任。この間、財(cái)界、大蔵省、日銀キャップを務(wù)めたほか、歐州、米國(guó)、アフリカ、中東、アジア諸國(guó)を取材。英國(guó)?サッチャー首相、中國(guó)?李鵬首相をはじめ多くの首脳と會(huì)見。東京都日中友好協(xié)會(huì)特任顧問。時(shí)事総合研究所客員研究員。著?共著に「中國(guó)危機(jī)ー巨大化するチャイナリスクに備えよ」「寡占支配」「外國(guó)為替ハンドブック」など。趣味はマラソン(フルマラソン12回完走=東京マラソン4回)、ヴァイオリン演奏。
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