あの橋が日本のODAで建設(shè)されたということを、ほとんどの人は知らない―中國人學(xué)生

日本僑報(bào)社    2015年10月29日(木) 8時(shí)57分

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対中國政府開発援助(ODA)をはじめとする日本の中國に対する貢獻(xiàn)は、今日でもさまざまな議論がある。中國伝媒大學(xué)の張[女朱]嫺さんは、そうした日本の貢獻(xiàn)について「雙方にとって利益があり、今後も協(xié)力を続けて行くべきだ」と主張している。寫真は武漢長江二橋。

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対中國政府開発援助(ODA)をはじめとする日本の中國に対する貢獻(xiàn)は、今日でもさまざまな議論がある。中國伝媒大學(xué)の張[女朱]嫺さんは、そうした日本の貢獻(xiàn)について「雙方にとって利益があり、今後も協(xié)力を続けて行くべきだ」と主張している。

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私の故郷は湖北省の武漢である。昔、武漢市內(nèi)で長江を渡ることのできる橋は、「長江一橋」しかなかった。このため、ある知り合いのお醫(yī)者さんは武昌県の青山から対岸にある漢口県へ行く場合、船を待つ時(shí)間やバスに乗る時(shí)間も入れると、全部で5時(shí)間もかかってしまい、一般の人々の通勤や親戚同士の交流にすごく不便だった。そこで、1990年、わが國は「長江二橋」を建設(shè)することを決めた。

完成したのは1995年。この大橋は交通の便利さをもたらしただけでなく、経済の面でも、武漢市、湖北省、そして湖北省周辺の地域にもずいぶん役に立ってきた。ところが、この武漢の代表的な建築物で、武漢の誇りである「武漢長江二橋」が、日本のODAの援助資金で建設(shè)されたものだということは、ほとんどの武漢の人には知られていない。これから日中の関係がよくなるにつれて、人々がこうした事実を知った時(shí)、きっと、日本や日本人に対する親しみが増すだろう。79年、中國は「內(nèi)に困難、外に圧力」に直面していた。その時(shí)、中國にODAの援助をしてくれた國家の中で第1位は日本であった。

中國社會科學(xué)院の張季風(fēng)氏の話によると、日本の援助は本當(dāng)に必要であった。特に道路や橋の工事のようなインフラ施設(shè)、例えば北京?秦皇島間の鉄道の工事は期間も長いし、規(guī)模も大きいので、ほとんどODAに頼って建設(shè)した。90年代半ばの一時(shí)期には、日本からのODAは中國國家計(jì)畫に必要な資金の20%以上も占めたそうだ。従って、ODAは中日友好の象徴と言える。

ODAは三つの部分からなっている。無償援助と技術(shù)援助、そして融資である。融資の利子は低く、返済期間は30年から40年くらいで、國際的にいえば相當(dāng)長い。特に改革開放の初期の資金不足の時(shí)にはずいぶん役に立った。日本から、これほどの融資がなければ、中國の経済発展のスピードは數(shù)年ほど遅くなったかもしれない。

日本が援助をした理由は三つあると考える。1番目は日本企業(yè)の海外進(jìn)出を円滑にし、対象國に対する市場開拓をするため。2番目は軍事的貢獻(xiàn)に代わる貢國際獻(xiàn)策。3番目は石炭など、エネルギーの問題を解決するためと考えられる。

中國の側(cè)から見れば、戦爭、內(nèi)亂、飢饉などを経験した中國にとって、改革開放の初期の日本からの援助は、困っている時(shí)に救いの手を差し伸べられる「雪中送炭」と言える。ODAをきっかけに中國が発展し、日本の企業(yè)も中國へ投資することができ、お互いに利益を得た。日本と中國は、アジアの少數(shù)の経済大國であり、長い間付き合ってきた隣人でもある。これからもっと交流し、助け合っていく必要があると、私は強(qiáng)く思う。(編集/北田

※本文は、第五回中國人の日本語作文コンクール受賞作品集「中國への日本人の貢獻(xiàn)」(段躍中編、日本僑報(bào)社、2009年)より、張[女朱]嫺さん(中國伝媒大學(xué))の作品「ODAから考える改革開放への日本の貢獻(xiàn)」を編集したものです。文中の表現(xiàn)は基本的に原文のまま記載しています。なお、作文は日本僑報(bào)社の許可を得て掲載しています。

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