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大連東軟情報學(xué)院の楊天鷺さんは、自身の父親と祖母の言葉、そして周恩來氏の詩を日中関係に重ね合わせている。寫真は京都?嵐山の周恩來首相記念詩碑。
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日中友好のシンボルとも言える石碑が、京都の亀山公園にある。これは、中國の周恩來氏が京都留學(xué)中に作ったと言われる詩「雨中嵐山」を刻んだもので、中國人観光客の來訪者も多い。大連東軟情報學(xué)院の楊天鷺さんは、自身の父親と祖母の言葉、そして周恩來氏の詩を日中関係に重ね合わせている。
【その他の寫真】
かつての中國人の多くが、日本という國に対してネガティブな、マイナスの気持ちを持っていたのは事実だと思います。70年前には戦っていたわけですから、お互いを敵視する気持ちは當(dāng)然です。戦爭の被害を受けた人たちが、相手國の國民を憎むのも當(dāng)たり前だと思います。私が幼稚園の頃も、テレビでは必ずいくつかのチャンネルが「抗日」をテーマにした番組を放送していました。その中の中國人ヒーロー?ヒロインは、みんなかっこいい善人ばかりでした。逆に日本人は必ずと言っていいほど、ずるくて怖くて亂暴で、そして……ちょっと申し上げにくいですが、変態(tài)おっさんのような感じを子供なりに感じていました。
そんな子供時代のある時、私は父にこんなことを聞きました?!弗靴?、あの日本人たちは、悪人なの?」。父はこう返事をしました?!干蓼欷胜椁螑櫲摔悉嗓长螄摔猡い胜い琛¥坤?、誰に対しても悪人と決めつけて指を差すのは、賢い子のすることじゃないよ」。私はそれから、ピストルで日本人を撃つまねはしないようにしました。
また、私が中學(xué)生の時、「ねえ婆ちゃん、昔の話を聞かせて。日本人に會ったことがある?」と祖母に聞いたことがあります。祖母は「ええ、あなたよりもっと小さい時にね」と笑って答えました。南昌にあった祖母の住宅には、2階は祖母の家族、3階は日本人夫婦が住んでいたそうです。そのころ10歳ぐらいだった祖母は、時々上に上って、その日本人の奧さんと身振り手振りで話をし、遊んでもらうことがよくあったそうです。奧さんが妊娠した時はご主人が傍に付き添って、時々祖母にお湯を持ってくるよう頼んで、とても禮儀正しかったそうです。私は「日本人が怖くなかったの?」と聞くと、祖母は首を振って「全然怖くなかったわ。お湯を汲んで來た小學(xué)生の私に感謝を示してくれたのはその日本人だけ。あの頃の中國の大人では考えられないことだったのよ」と答えてくれたのを今でも覚えています。
最近は、戦爭を知らない世代が多くなりました。日中國交回復(fù)から40年を経て、相互交流が當(dāng)たり前の世の中になりました。當(dāng)時の周恩來首相は、戦爭は日本の一部軍國主義者の責(zé)任で、日本國民は被害者だったと中國國民に話したことを何度も読んだことがあります。これを読んで、私は父の話と祖母の言葉を噛みしめています。父は、相手を悪人と思ってはいけないと教えてくれました。祖母は、中國人より禮儀正しい日本人もいることを忘れてはいませんと言いました。目の前の相手がいい人だと信じる「心」があれば、言葉ができなくても必ず通じ合えると思います。
京都の嵐山には、桜のある景色を描寫した故?周恩來元首相の詩碑があります。ピンクの桜と、緑の松は霧雨の中に煙っています。しかし、しばらくすると、雲(yún)間から太陽の光が差し始めたという內(nèi)容です。あれは、中國と日本の関係に似ていると思います。將來、両國の間に、雲(yún)が消え、霧が晴れるような関係を築くのは、學(xué)生としての私たちの責(zé)任だと思います。皆さんも、これから生まれる中國人も、以前のような印象を持たない、與えないように、社會全體でこれからを考えて行くようにしたいものです。(編集/北田)
※本文は、第八回中國人の日本語作文コンクール受賞作品集「中國人がいつも大聲で喋るのはなんでなのか?」(段躍中編、日本僑報社、2012年)より、楊天鷺さん(大連東軟情報學(xué)院)の作品「日中両國民の信頼感はこのように高めましょう」を編集したものです。文中の表現(xiàn)は基本的に原文のまま記載しています。なお、作文は日本僑報社の許可を得て掲載しています。
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