「血の友誼」、中國が北朝鮮を見捨てない一つの理由

Record China    2016年3月16日(水) 4時10分

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北朝鮮が挑発行為を繰り返しても、後ろ盾の中國は決して見捨てない。朝鮮戦爭を通じて固められた「血の友誼(ゆうぎ)」が、その理由の一つだ。資料寫真。

2016年3月15日、今年になってからも「水爆実験」、ミサイル発射と國際社會に挑戦する行為を繰り返す北朝鮮。しかし、金正恩政権が「駄々っ子」のように騒いでも、後ろ盾の中國は決して見捨てない。キーワードの一つは、朝鮮戦爭を通じて血で固められた友情あるいは友好を意味する「血の友誼(ゆうぎ)」だ。

1950年6月25日、北朝鮮軍は南北武力統(tǒng)一を目指し38度線を越えて韓國に侵攻した。朝鮮戦爭の始まりだ。奇襲攻撃に韓國軍は敗走を重ねてソウルを失い、朝鮮半島南端の釜山周辺まで追い詰められた。開戦後、間もなく國連安全保障理事會は北朝鮮を非難する決議を採択。米軍を中心とする國連軍が韓國に派遣された。

國連軍は同年9月15日、ソウル近郊の仁川に上陸作戦を決行。補給線が延びきっていた北朝鮮軍が今度は敗走した。國連軍はソウルを奪い返して北進し平壌も占領、さらに中朝國境近くまで迫り、「朝鮮民主主義人民共和國」は存亡の危機に立たされた。

そこに同年10月、鴨緑江を越えて參戦したのが中國の人民志願軍。「人海戦術」を駆使して國連軍を押し戻し、ソウルを奪い返すなどした。その後、戦況は38度線を挾んで一進一退となり、53年7月27日、板門店で休戦協(xié)定が締結され、現在に至っている。

中國側の戦死者數については諸説あるが、中國によると、約17萬人。米國などは50萬人に上るとみている。戦死者の中には中國の毛沢東國家主席の長男?毛岸英氏も含まれる。同氏が眠る墓地は北朝鮮の「聖地」とされ、中國要人もしばしば訪れる。2010年11月には沒後60周年の記念式典も開催された。

中國の習近平國家主席は副主席當時の10年10月、中國參戦60周年に際し、「朝鮮戦爭は平和を守り侵略に対抗した正しい戦爭であった」と強調した。最大120萬人ともいわれる兵員を投入した朝鮮戦爭は、中國が「アメリカ帝國主義」と直接対決した唯一の戦爭。當時のスローガンは「抗美援朝」(美は米國)だった。自らの血を流して守った友邦を見捨てることは、抗日戦爭に並ぶ共産黨の歴史の否定にもつながる。

最近、メディアで取り上げられることは少ないが、中朝間には「友好協(xié)力相互援助條約」がある。1961年5月、韓國で樸正煕少將(當時。その後、大統(tǒng)領に就任。樸槿恵大統(tǒng)領の父親)らがクーデターを起こし、反共色が強い軍事政権が樹立されたことに危機感を抱いた北朝鮮の金日成主席が7月、中國の周恩來首相との間で調印した。

條約は20年ごとの自動更新で、2001年に更新された。その中核は「いずれか一方の締約國がいずれかの國または同盟國家群から武力攻撃を受けて,それによって戦爭狀態(tài)に陥つたときは他方の締約國は,直ちに全力を挙げて軍事上その他の援助を與える」という參戦條項だ。

中國共産黨系の環(huán)球時報は先ごろ、朝鮮半島情勢に言及した記事の中で「中國は朝鮮半島の最悪狀況に備え周到綿密な準備をしなければならない。米國と韓國が38度線を突破し全面的に軍事行動を取るならば、中國が軍事的介入をする可能性も念頭に置かなければならない」などと主張した。「血の友誼」の上に築かれた中朝の絆は、想像以上に強い。(編集/日向)

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