Record China 2016年4月22日(金) 8時(shí)10分
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20日、中國人は日本を知り始めたばかりだと中國人記者が論じている。寫真は鳩山由紀(jì)夫元首相と丁剛氏。
2016年4月20日、海外特派員を20數(shù)年勤め、50余りの國を訪れたが、いまだ日本に行ったことがなかった。今回、環(huán)球網(wǎng)と中國公共外交協(xié)會(huì)が主催するイベントに參加して、日本のメディア関係者と交流することになった。環(huán)球網(wǎng)が伝えた。(文:丁剛[ディン?ガン]「人民日?qǐng)?bào)」社高級(jí)記者)
訪日経験のある友人が「日本に行ったことのない人は日本の悪口ばかり。日本に行ったことのある人は日本を褒めてばかり」と話すのを聞いたことがあったが、ちょうど日本へ行く前日に、日本旅行から戻ったばかりの親戚が私に會(huì)いに來た。50過ぎの親戚は會(huì)うなり「多分私が生きているうちに中國が日本に追いつくのを見ることはできないだろう」と言うと、數(shù)々の日本人の禮儀正しさに関するエピソードを數(shù)え上げ、日本で購入したトイレの消臭剤、電気炊飯器、空気清浄器などについてひとつひとつ語ってくれた。
親戚の見聞は私がネット上で見た多くの中國人が語る日本旅行の経験とおよそ似通っていた。人によって細(xì)かい點(diǎn)は異なるものの、主な內(nèi)容は同じなのだ。これらの日本人がいかに禮儀正しく、日本製の商品がいかに細(xì)やかであるかというストーリーは、中國人が心に描く日本の主要な部分となりつつある。それらが最終的に中國人の日本全體のイメージを変えることになるだろうか?現(xiàn)時(shí)點(diǎn)では何とも言えないが、日本政府が中國人向けの観光ビザの緩和を決定したのは、経済的な要素ばかりを考慮したわけではないという一點(diǎn)は確信できる。
中國と日本は動(dòng)かざる隣國であり、中國の日本への認(rèn)識(shí)は今に始まったことではない。日本は中國が開國して最初に接觸した「外國」であり、現(xiàn)在も中國市場(chǎng)の重要な地位を占めている日本企業(yè)は全て最も早い時(shí)期に中國に進(jìn)出した外國企業(yè)だ。しかし、多くの同胞と共にパスポートを手に入國検査を通った時(shí)、突然中國人の日本への認(rèn)識(shí)は始まったばかりだという感覚に襲われた。
実際、中國人がより遠(yuǎn)い國まで足を運(yùn)ぶようになり、そのペースが加速するにつれて、近隣という意義はすでに地理的概念で括られるものではなくなってきている。日本は影のように中國人や中國企業(yè)に寄り添い、世界各地に出現(xiàn)している。私が海外に駐在していた20數(shù)年あまりの間も実はこの影を振り切ることはできなかった。日本というのは常に無視することのできないテーマだからだ。
私はタイに3年ほど駐在したが、バンコク國際空港から市內(nèi)に移動(dòng)するたびに、2つの大きな広告パネルの前を通る。1つは中國のハイアールのもので「世界最大の家電サプライヤー」と書かれている。もう1つは三菱で「タイの製造業(yè)発展をサポートします」と書かれている。この2つのキャッチコピーが中國とタイ、日本とタイの異なる関係と2社のタイにおける異なる地位を明確にしている。
2011年に日本の近海で大きな地震が発生したニュースがタイに伝わると、その日から多くのタイ人が街頭での募金活動(dòng)を始めた。タイの日系自動(dòng)車企業(yè)では、タイの工場(chǎng)労働者が日本人経理と抱き合いながら涙するという感動(dòng)的なシーンも見られた。統(tǒng)計(jì)によれば、タイは日本に6億バーツ(約18億7000萬円)を超える募金を行ったという。このデータが公表されると、中國の外交官は四川大地震に対するタイからの募金は3億バーツにも満たなかったことを大変感慨深く思い起こしたという。
ミャンマー北部を取材した際、日本の慈善団體が獨(dú)立武裝勢(shì)力であるミャンマー北部の少數(shù)民族に停戦を條件に援助を申し出ていることを知った。フィリピンではミンダナオ島のイスラム系住民の武裝勢(shì)力の武裝を解くのに日本の慈善金が使われたと聞いている。
今年1月には、2年余りにわたったブラジル駐在を終えた。2014年にブラジルで開催されたワールドカップC組の試合では、日本チームが1対2でアフリカのコートジボワールチームに敗れた。日本チームはグラウンドでは敗れたが、グラウンドの外では勝った。なぜなら、日本のサッカーファンたちが雨具を著て、會(huì)場(chǎng)內(nèi)のゴミ拾いをする寫真がネットに載せられたからだ。これらの寫真はツイッターやフェイスブックといったSNSを通じて世界各地に広まった。
日本の國際的なイメージがアップする一方で、多くの人々はまだ人類が忘れてはならない歴史を忘れることはない。
日本人は本當(dāng)にこんなにも簡(jiǎn)単にあの歴史を拭い去ることができたのか?いや、そうではない。
著名作家であるイアン?ブルマの著書「戦爭(zhēng)の記憶―日本人とドイツ人」で、日本人の第2次世界大戦に対する認(rèn)識(shí)がどうして我々と「つながる」ことがないのかその原因を知った。ブルマは日本人とドイツ人の比較を通じて、ドイツ人にとっての第2次世界大戦とはスターリングラード攻防戦でも、ベルリンの戦いでもなく、アウシュビッツ収容所が発見された瞬間だとし、日本人にとっては真珠灣攻撃でも、ミッドウェー海戦でもなく、広島の原爆なのだとしている。
今度のG7サミットは広島で開催される。日本は特にこの原爆投下の歴史を強(qiáng)調(diào)し、全世界からユース非核特使を集め、サミットという機(jī)會(huì)を通じて、ボランティアから日本の國家イメージを國際舞臺(tái)で示そうとしている。このような巧妙な國際外交手段により、原爆の悲慘な歴史を日本國民に伝えていくことができるだけでなく、國際的には反核を通じて自國の侵略者としての本來の姿を隠すことができる。原爆は説得力と合法性のある外交カードであり、日本はこのカードを使って、核保有または保有しない國々の間をまわり、積極的に議題を設(shè)定し、自國に有利に運(yùn)ぼうとしている。
戦後の日本は、大國の冷戦が続く中、アメリカとの同盟を利用し、次第に戦爭(zhēng)の罪という重荷を捨て去り、國家イメージを変えていった。しかしそれにより日中両國は信頼のおける政治的基礎(chǔ)を構(gòu)築することができなかった。
70年後、中國は日本を越えて、世界第2位の経済大國となった。一方の日本は弛まぬ努力を続け、アジアで良好な國家イメージを作り上げた。中國と日本の両國の経済格差は縮まるばかりだが、両國の國民の心理的な距離は益々開くばかりだ。中國人は日本人からかつての日本兵の影を追い払うことができず、日本人もまた巨大な中國という影に恐怖を覚えている。
この世界で、文化的にも最も共通點(diǎn)の多い國であるのに、どうしてこんなにも距離があるのだろうかという點(diǎn)について、とても知りたいと思う。わずか5日間の訪問で、正確にこの「距離」を推し量ることはできないかもしれない。しかしここから私の「測(cè)量」の仕事はずっと続いていくだろう。(提供/人民網(wǎng)日本語版?翻訳/TG?編集/武藤)
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2016/4/20
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