孫文の銅像の背後に存在した中國と日本の友情―香港メディア

人民網(wǎng)日本語版    2016年5月26日(木) 3時20分

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今年は孫文生誕150周年にあたり、それを記念するイベントが続く。そんな孫文の銅像を語る上で忘れてはならないのが、孫文の日本人の友人である梅屋莊吉が鋳造した四體の銅像だ。

2016年は孫文(1866?1925年)生誕150周年にあたり、それを記念するイベントが続く。孫文の銅像は中國と臺灣、香港、マカオや海外でも多く建てられており、特に香港ではほとんどの大學のキャンパスに銅像がある。そんな孫文の銅像を語る上で忘れてはならないのが、孫文の日本人の友人である梅屋莊吉(1868?1934年)が鋳造した四體の銅像だ。それぞれ広州市の中山大學キャンパスと黃埔軍官學校跡、南京市の中山陵、マカオの國父記念館にある。大公網(wǎng)が伝えた。

中山大學は孫文が1924年に國立広東大學として設立した。梅屋莊吉が銅像のうちの一體をこのキャンパス內に建てたのは當然のことだろう。孫文の銅像は中山大學のキャンパス中央に位置し、大學のシンボルとなっている。この銅像は中年期の孫文の姿をかたどり、長めのコートにスーツを著て、左手を腰に、右手を伸ばして、民衆(zhòng)に向かって演説を行うおなじみのポーズとなっている。銅像は1933年冬に中山大學石碑跡に設置され、その後、1954年春に広州市人民政府が中山記念堂に一時的に移動したのち、1956年11月12日(孫文生誕日)に再び中山大學の新キャンパス(舊?嶺南大學)に移転され、今日に至る。

梅屋莊吉は1895年に香港で孫文と知り合い、その後、孫文の革命運動を資金面で支え続けた。梅屋は孫文の生死を共にする友人として、2人の友情は30年以上続いた。1925年に孫文が亡くなると、梅屋は非常に嘆き悲しんだ。そして孫文を記念して銅像を鋳造し、人々に孫文の理想と革命精神を伝えようと考えた。梅屋は日本の彫刻家牧田祥哉に銅像のデザインを依頼し、篠原金作工場に鋳造を依頼した。1929年、梅屋は自ら第1體目の銅像と共に南京市を訪れ、中央陸軍軍官學校に設置している。中山大學に贈呈されたのは第3體目にあたり、これも梅屋自身が同行し広州に送り屆け、現(xiàn)在も中山大學キャンパスの孫文像として安置されている。(提供/人民網(wǎng)日本語版?編集TG)

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