人民網(wǎng)日本語(yǔ)版 2016年6月29日(水) 6時(shí)10分
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復(fù)旦大學(xué)中華古籍保護(hù)研究院と同大學(xué)図書(shū)館は6月18日、浙江省寧波市の商人の近代の上海における経済活動(dòng)に関するセミナーを共同で開(kāi)催した。
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復(fù)旦大學(xué)中華古籍保護(hù)研究院と同大學(xué)図書(shū)館は6月18日、浙江省寧波市の商人の近代の上海における経済活動(dòng)に関するセミナーを共同で開(kāi)催した。 東方早報(bào)が報(bào)じた。
【その他の寫(xiě)真】
寧波市の商人たちは近代、上海で商売をし、重要な地位を確立した商人グループの一つ。セミナーでは、復(fù)旦大學(xué)の周振鶴教授が、浙江省慈溪市の商人が編集した日本語(yǔ)の教材を紹介した。この日本語(yǔ)の教材は長(zhǎng)い間あまり注目されることはなかったものの、中國(guó)の日本語(yǔ)教材史において重要な役割を果たした。
その教材の名稱(chēng)は「中東通語(yǔ)捷徑」。周教授は「おそらく1887年、もしかすると1885年に出版されたかもしれない」と話す。
■少なくとも27回の広告掲載
周教授が資料を調(diào)べてみると、1887年1月2日から1890年11月2日のわずか4年足らずの間に、「中東通語(yǔ)捷徑」の広告が27回も掲載されている。周教授は「このことから販売部數(shù)が多く、當(dāng)時(shí)の中國(guó)社會(huì)で日本語(yǔ)教材はかなりの需要があったことは明らかだ」と語(yǔ)る。
同教材の作者である王仁乾は、1870年に訪日の経験があり、日中間を頻繁に行き來(lái)していた。1887年に同教材が出版されたとすると、出版された時(shí)點(diǎn)で王仁乾が日本語(yǔ)に觸れるようになってすでに17年経っていたことになる。そのため、1887年には、彼の日本語(yǔ)はかなり上達(dá)していて、日本語(yǔ)の教材を作成できるほどだったと考えられる。王仁乾は慈溪市の出身。清代は慈溪県と呼ばれ、寧波府に屬していた。周教授によると、寧波府は、前身である宋代から栄えた浙江省の商業(yè)都市?明州が海上貿(mào)易関係の事務(wù)を所管する官署?市舶司(しはくし)を設(shè)置して以降、日本との貿(mào)易関係が続いていたという。
■従來(lái)の方法で音聲表記
興味深いことに、王仁乾は日本語(yǔ)を特別に學(xué)んだわけではない。周教授によると、「王仁乾は商人。そのため、この教材を編集した時(shí)も、従來(lái)の方法で音聲を表記しており、彼の方言で読み方が表記されている部分まである」という。
例えば、「春」を「哈路」、夏を「那子」、「秋」を「矮既」、「冬」を「府有」と表記している(※いずれも中國(guó)語(yǔ)で読むと日本語(yǔ)に聞こえる)。そのなかで「秋」の「矮既」は、江東地方のなまり(中國(guó)語(yǔ)の標(biāo)準(zhǔn)語(yǔ)の発音とは異なる)で発音しなければ日本語(yǔ)の発音にはならない。
周教授によると、この方法で日本語(yǔ)を勉強(qiáng)するとすれば、単に丸暗記するしかない。このような教材はとてもレベルが高いとは言えず、教材としてはお粗末としか言いようがないが、それでもこの教材は中國(guó)で何度も再版され、販売され続けていたのだと周教授は紹介している。(提供/人民網(wǎng)日本語(yǔ)版?編集KN)
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2016/6/26
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