岡田 郁富 2016年7月1日(金) 15時(shí)30分
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6月4日の「天安門事件」は多くの人々の記憶に殘るが、実は「天安門事件」と呼ばれる騒擾事件がもう一つあることは余りよく知られていないのではなかろうか。寫真は天安門。
1989年6月4日は政治改革に積極的で民主派といわれた胡耀邦の死をきっかけに、民主化を求めて天安門広場(chǎng)に座り込んだ學(xué)生たち及びこれを支援する一般民衆(zhòng)に対し、人民解放軍が武力で鎮(zhèn)圧、多數(shù)の死傷者を出した事件の日で、この騒亂は「天安門事件」と呼ばれ、多くの人々の記憶に殘る。事件の最大の山場(chǎng)の弾圧日が6月4日であったことから「六?四事件」とも呼ばれ、目下中國共産黨にとって觸れられたくない事件でもある。
しかし、実は「天安門事件」と呼ばれる騒擾事件がもう一つあることはあまりよく知られていないのではなかろうか。文化大革命(1966年―1977年)末期の1976年4月5日、その年の1月に病死した周恩來総理追悼のため一般民衆(zhòng)が天安門広場(chǎng)に捧げた數(shù)多くの花輪等の獻(xiàn)花物が一夜にして北京市當(dāng)局により撤去され、それに怒った民衆(zhòng)が軍の一部や警察等公安関係部門と衝突、多數(shù)の負(fù)傷者を出した流血事件のことである。後年の「六?四事件」と區(qū)別する意味で「第一次天安門事件」あるいは「四?五天安門事件」とも言われるものである。
商談で北京に滯在していた私は、同年4月3日の午後、散歩がてら目的もなく天安門広場(chǎng)に向かった。驚いたことに、普段だだっ広い感じのする広場(chǎng)は中央にある人民英雄記念碑を取り囲む様にして花輪がいっぱい飾られ、數(shù)多くの立て看板と多くの市民で埋め盡くされていた。中國では4月5日頃は清明節(jié)と呼ばれる二十四節(jié)気の一つの時(shí)期に當(dāng)たり、各家庭では故人をしのび墓參りを行う等の風(fēng)習(xí)がある。北京の民衆(zhòng)はこれに習(xí)って花輪を飾り、立て看板等を並べてその年の1月に亡くなった周恩來の追悼をしていたのである。立て看板には周恩來を讃えたものや逆に四人組を非難、攻撃する文章や詩等が書かれ、人々はそれらを読み、涙を流し、持參したノートやメモ用紙等に書き寫していた。
翌4日の朝に再び行って見ると、それらの花輪や立て看板等はきれいさっぱりなくなっていた。北京市當(dāng)局が前夜の內(nèi)に全て撤去したという。代わりに多數(shù)の民衆(zhòng)が集まり、広場(chǎng)の東側(cè)辺りにあった公安関係者の宿舎の窓ガラスめがけて石を投げつけ、うまく命中してガラスが割れると一斉に拍手喝采をしているのが見られた。さらには、広場(chǎng)の2、3カ所に人の輪ができていて、時(shí)折その中心部あたりから帽子や靴、中にはカメラ等が投げられ宙に舞っていた。人垣であまり近づけなかったが、「どうも、外人がやられているらしい…」「寫真を撮っていた…」「外國の新聞?dòng)浾撙椁筏ぁ沟趣趣い盲柯暏劋长à?。広?chǎng)東の歴史博物館の前には見慣れた公共バス1臺(tái)とさらに2両連結(jié)のバスが橫倒しになり、周りはタイヤの燃える黒い煙と臭いに包まれていた。私には目の前の事実はわかるものの、全貌として何が起こっているのかさっぱりわからなかった。住所に中國北京市と書き、宛名に私の名前を書くだけで日本からの手紙が屆くほど日本を含む外國人が少なかった時(shí)代である。服裝や言葉ですぐ異國人とわかってしまうのを懸念し、ひとしきり広場(chǎng)を見回ってから早々に広場(chǎng)を後にした。その後は身の安全をも考え、単身で天安門広場(chǎng)に近づくのは控えた。
その日の夜だったか、翌日の夜であったか記憶が定かでないが、長安街に面した電報(bào)大樓への行き返りに天安門広場(chǎng)前を通った。広場(chǎng)では誰かが臺(tái)上に立ち、演説の様なことをしているのが見えた?!副本┦肖韦獋イい丹螭?、呉徳だろう…」タクシーの運(yùn)転手が教えてくれた。長安街の通りに沿って並ぶ警護(hù)官の前を車は速度を下げながら通過して宿に戻った。
「トウ小平が解任された(失腳した)」というニュースは次の日の朝だったか、ホテルの従業(yè)員から聞いた。この時(shí)でも、私にはこの國が今どうなっているのか、何がどう動(dòng)いているのか等よくわからない狀況が続いていた。これらの全體的な狀況の概要がわかる様になったのは數(shù)日後の日本からの出張者が持參した日本の新聞を見てからであった?!柑彀查T事件」という名前もこの時(shí)初めて知った。歴史的事件に遭遇していたことを知ったのもこの後である。
事件の半年後、四人組は逮捕され、文化大革命は実質(zhì)的に幕を閉じた。當(dāng)時(shí)の公安部宿舎跡の周りには毛沢東記念堂が建てられた。記念堂近くに立つと多くのことは忘れ去ってしまっているが、あのガラスを割って拍手をし、歓聲をあげていた人々の姿は鮮明に思い出す。
■筆者プロフィール:岡田 郁富
大阪出身、大阪外國語大學(xué)卒。長年日本の大手総合商社にて中國ビジネスに攜わり、機(jī)械、プラント類の輸出をはじめ中國現(xiàn)法の責(zé)任者として數(shù)多くの対中投資案件を手掛け、商社退職後は主として中小企業(yè)向けに中國ビジネスアドバイザーを務(wù)める。ビジネスでの往來や長期滯在等を含め50年程に渡り中國関連に係り、豊富な経験を持つ。
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