八牧浩行 2016年8月22日(月) 10時(shí)30分
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かつて日本の卓球が日本と中國を、そしてアメリカを動(dòng)かした。ニクソン米大統(tǒng)領(lǐng)の電撃訪中や日中國交正?;说坤蜷_いたピンポン外交である。森武著『ピンポン外交の軌跡』は、歴史を畫したこの出來事の舞臺(tái)裏を、現(xiàn)場(chǎng)に立ち?xí)盲慨?dāng)事者が明かした実録だ。資料寫真。
世界のアスリートが力と技を競(jìng)い合った「平和の祭典」リオデジャネイロ?オリンピック大會(huì)が閉幕した。連日熱戦が続いたが、卓球では男女ともに、日本と中國の激闘ぶりが目立った。
かつてこの卓球が、日本と中國を、そしてアメリカを動(dòng)かした。ニクソン米大統(tǒng)領(lǐng)の電撃訪中や日中國交正?;说坤蜷_いた「ピンポン外交」である。
森武著『ピンポン外交の軌跡?東京、北京、そして名古屋』は、歴史を畫したこの出來事の舞臺(tái)裏を、現(xiàn)場(chǎng)に立ち?xí)盲慨?dāng)事者が明かした実録だ。スポーツが國際政治を揺り動(dòng)かした事例として、オリンピック祭典を機(jī)に想起したい。
1971年春、名古屋の世界卓球選手権大會(huì)に參加した中國チームと米國チームの交流をきっかけに、ベトナム戦爭(zhēng)で敵対関係にあった米中両國が急接近し、翌年明けにニクソン大統(tǒng)領(lǐng)の訪中が実現(xiàn)。72年秋には、日本と中國の國交正?;税k展した。
小さなピンポン玉が世界の外交を動(dòng)かしたのである。日本を舞臺(tái)にしたスポーツ交流が國際政治を動(dòng)かした歴史的な出來事だ。この名古屋世界卓球選手権大會(huì)に中國の參加を求めて奔走したのが、日本卓球協(xié)會(huì)會(huì)長(zhǎng)を務(wù)めていた後藤●(金ヘンに甲)二氏(故人)と同協(xié)會(huì)常任理事だった本書著者?森武氏(現(xiàn)?早稲田大名譽(yù)教授)らである。
當(dāng)時(shí)、中國は文化大革命の最中で國內(nèi)が混亂しており、2年に一度開催される世界卓球には2回続けて不參加だった。世界最強(qiáng)チームだった中國の不參加は世界卓球の人気にも影を落としていた。中國の參加を切望する世界の聲を受け、両氏らは國交のなかった中國?北京に行き、困難な交渉の末、中國の參加に成功する。
本書につづられたエピソードは興味をそそる。71年1月に香港経由で広州から北京へ、航空機(jī)と鉄道を乗り継いでの長(zhǎng)い旅路。難交渉の中で、立ちはだかったのは臺(tái)灣問題。後藤會(huì)長(zhǎng)は中華人民共和國が唯一の政黨政府であるという「一つの中國」政策を認(rèn)め、臺(tái)灣チーム(中華民國)のアジア卓球連盟からの除名を決斷する。後藤氏は同連盟會(huì)長(zhǎng)も務(wù)めており、國際卓球連盟からの要請(qǐng)もあったとはいえ、苦衷の決斷であった。
かつて日本留學(xué)経験があり卓球も上手な周恩來首相が交渉の要となり、最終的に毛沢東主席が派遣を決定する。「一つの中國論」を掲げ、國際舞臺(tái)へ復(fù)帰したいとの中國側(cè)の並々ならぬ決意も伝わってくる。
名古屋世界卓球大會(huì)には中國の60人もの代表団が來日し、日中親善上も大成功を収めた。この大會(huì)を通じて中國代表団と接觸の機(jī)會(huì)を得た米國代表団は大會(huì)終了後、その足で中國を訪問したいという希望を出した。予定になかった行動(dòng)だけに、大會(huì)主催者は大慌て、ハプニングの連続だったが、この想定外の米選手団訪中も実現(xiàn)。米中間の“雪融け”に寄與した。
多くのエピソードが満載だが、次の逸話は興味深い。
米選手の一人が間違えて中國チームのバスに乗り込むハプニングが起きた。中國選手は驚いたが、その中の一人がとっさに中國産の錦織をプレゼント。米國選手はTシャツをお返しのプレゼントとした。これをきっかけに米中選手団の間に友情が芽生えた。
その後、國際卓球連盟の3代目會(huì)長(zhǎng)の荻村伊智朗氏が韓國と北朝鮮合同チームの実現(xiàn)に努め、1991年の千葉世界選手権大會(huì)で実現(xiàn)した。2008年に胡錦濤國家主席が福原愛選手と早稲田大學(xué)で卓球をするなど、卓球を通じた親善外交は現(xiàn)代でも行われている
日本を舞臺(tái)とした「ピンポン外交」が日中米をはじめとする世界各國の友好?平和につながったのは素晴らしいことである。元中日新聞?wù)撜h委員の河村範(fàn)行氏は本書巻末に「現(xiàn)代においても、國際関係の潮流を巨視的に捉え、進(jìn)むべき道を戦略的に構(gòu)想し、その実現(xiàn)のために外交や民間の有効な手段を活用しつつ、取り組んでいくことの重要さが改めて求められている。ピンポン外交の教訓(xùn)は今もなお活きている」と解説している。(八牧浩行)
<森武著『ピンポン外交の軌跡?東京、北京、そして名古屋』(ゆいぽおと刊、1300円稅別)>
■筆者プロフィール:八牧浩行
1971年時(shí)事通信社入社。 編集局経済部記者、ロンドン特派員、経済部長(zhǎng)、常務(wù)取締役編集局長(zhǎng)等を歴任。この間、財(cái)界、大蔵省、日銀キャップを務(wù)めたほか、歐州、米國、アフリカ、中東、アジア諸國を取材。英國?サッチャー首相、中國?李鵬首相をはじめ多くの首脳と會(huì)見。東京都日中友好協(xié)會(huì)特任顧問。時(shí)事総合研究所客員研究員。著?共著に「中國危機(jī)ー巨大化するチャイナリスクに備えよ」「寡占支配」「外國為替ハンドブック」など。趣味はマラソン(フルマラソン12回完走=東京マラソン4回)、ヴァイオリン演奏。
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