福原愛はなぜコテコテの中國東北弁を話すのか?その裏にいる1人の女性―中國メディア

Record China    2016年9月24日(土) 23時(shí)30分

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23日、捜狐體育は、福原愛が流ちょうな中國東北弁を話せるようになった要因は、1人の女性にあると伝えた。

2016年9月23日、捜狐體育は、福原愛が流ちょうな中國東北弁を話せるようになった要因は、1人の女性にあると伝えた。

21日、福原愛が都內(nèi)で結(jié)婚會見を開いた時(shí)も、その翌日に夫の江宏傑(ジアン?ホンジエ)とともに臺灣の空港に姿を見せた時(shí)も、その女性の姿はそこにあった。福原のコーチを務(wù)める張莉梓(中國名:湯媛媛)さんだ。張莉梓さんと福原の関係は、単なるコーチと選手の関係にとどまらない。

1983年1月5日生まれの張莉梓さんは、両親が「健康のため」と6歳から卓球を始めさせると、めきめきと実力をつけていった。ジュニアで全國ベスト8に入り、中國遼寧省のチームではキャプテンも務(wù)めた。その後、福原の両親からの再三の要請を受けて、2002年に留學(xué)生として來日。福原の専屬コーチになった。福原が、卓球の技術(shù)が最も伸びる時(shí)期に指導(dǎo)を受けたのが彼女だった。

福原との関係は友達(dá)のようなものだった。2人は卓球だけでなく、生活面でも互いに助け合った。日本に來たばかりの時(shí)、張さんは日本語が話せず、福原がよく「通訳」をしていたという。これがまさに、福原が中國語が急速に上達(dá)した理由であり、その中國語が中國人を萌えさせるコテコテの東北なまりになった理由でもある。

張さんの指導(dǎo)の下、福原は日本を代表する卓球選手となった。2008年の北京五輪後は福原の指導(dǎo)から遠(yuǎn)ざかっていたが、2016年から再びコーチを務(wù)め、リオ五輪もともに戦った。2008年に日本に帰化した張さん。國際大會の出場経験こそないが、福原愛という中國で大人気の日本人卓球選手を生み出した。(翻訳?編集/北田

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