人民網(wǎng)日本語(yǔ)版 2016年10月16日(日) 0時(shí)0分
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今年のノーベル文學(xué)賞受賞者が13日発表され、今年は米國(guó)人歌手のボブ?ディランが選ばれた。村上春樹(shù)氏の多くの作品の中國(guó)語(yǔ)翻訳を擔(dān)當(dāng)する林少華氏は、ノーベル文學(xué)賞に関して、毎年10月にメディアの「質(zhì)問(wèn)攻撃」を受けていた。
今年のノーベル文學(xué)賞受賞者が13日発表され、今年は米國(guó)人歌手のボブ?ディランが選ばれた。村上春樹(shù)氏の多くの作品の中國(guó)語(yǔ)翻訳を擔(dān)當(dāng)する林少華氏は、ノーベル文學(xué)賞に関して、毎年10月にメディアの「質(zhì)問(wèn)攻撃」を受けており、「心から村上氏が一日も早くノーベル文學(xué)賞を受賞してくれればと思う。そうしてくれないと毎年こうして前祝いをしなきゃいけなくて、本當(dāng)に大変だ」と冗談交じりにコメントした。人民網(wǎng)が伝えた。
村上ファン以外、どれだけ多くの「野次馬」たちが村上氏の「萬(wàn)年有力候補(bǔ)」という呼び名の話題で盛り上がり、また、どれだけ多くの人たちが、村上氏本人のこの呼び名に対する見(jiàn)方を理解しているのだろうか?実際の村上春樹(shù)氏は、もしかするとあなたのイメージとは違うかもしれない。
▼読書(shū)好きだった青春時(shí)代:ジャズバーのマスターとして自由気ままな日々
村上氏は小さいころから無(wú)類の読書(shū)好きで、成長(zhǎng)していくにつれて、西洋文學(xué)にのめり込むようになった。また、のちにしばらくの間、海外で暮らしていた経験もあるため、村上氏の作品には日本的な考えとは敢えてかけ離れた趣もあり、日本人作家でありながら、日本らしくない作品となっている。
村上氏は若い頃、普通の人とは違った自由気ままな日々を送っていた時(shí)期もある。大學(xué)を中退し、結(jié)婚をした後、借金をしてジャズ?jiǎn)瞬瑜颔`プン。そして毎日大好きなジャズを思う存分楽しんでいたという。そのジャズ?jiǎn)瞬瑜?、晝間はコーヒーが飲める普通の喫茶店、夜はジャズバーというスタイルだった。
中國(guó)の文學(xué)青年が読むべき小説の三大作家は、マルグリット?デュラス、張愛(ài)玲、村上春樹(shù)だという人もいるほどで、村上氏の作品には獨(dú)特のスタイルがあり、本人の好きなものが密接に関係している。村上氏が好きなものは、洋楽、F?スコット?フィッツジェラルド、レイモンド?カーヴァー、おいしい料理などで、これらはまた文學(xué)青年にとっても最愛(ài)のものなのだ。
村上氏がジャズ?jiǎn)瞬瑜蚪U営していた當(dāng)時(shí)の様子はもう目にすることはできないが、ここ最近公開(kāi)された書(shū)斎の寫(xiě)真からは、村上氏の深みのある文學(xué)センスをみてとることができる。
▼人生のターニングポイント:神宮球場(chǎng)で思いついた奇抜なアイディア
1978年4月1日午後1時(shí)半頃、ジャズ?jiǎn)瞬瑜违蕙攻咯`だった村上氏はある奇抜なアイディアを思いつき、これが彼の人生を変えるきっかけとなった。
村上氏の回想によると、それはちょうど神宮球場(chǎng)の外野席に座り、一人でビールを飲みながら、野球の試合を観戦していたときだったという。それからというもの、毎日ジャズバーの営業(yè)が終わると、村上氏は文房具店で買(mǎi)ってきた萬(wàn)年筆と紙を出し、ジャズを浴びるように聴きながら、自分の孤獨(dú)と憂いの気持ちをしたためた。
そして29歳のときに、村上氏はデビュー作「風(fēng)の歌を聴け」を発表し、第22回群像新人文學(xué)賞を受賞した。
▼日本を脫出:落ち著いて執(zhí)筆できる環(huán)境を求めて海外に移住
村上氏が有名になると、各種出版社からの仕事の依頼やメディア取材、講演活動(dòng)などで忙しくなり、執(zhí)筆活動(dòng)が思うようにはかどらなくなってしまった。そしてそのような煩わしさから逃れるため、時(shí)おり海外で暮らすようになり始めた。
1986年、村上氏は妻とともにヨーロッパに移住し、3年ほど生活した。海外にいるときはほとんど世間とは隔絶した狀態(tài)で、長(zhǎng)編小説の執(zhí)筆に沒(méi)頭した。そして村上氏は分厚い原稿用紙の束を持って日本へ帰國(guó)したのだが、このときはこの小説が爆発的なヒット作になるとは誰(shuí)も予想していなかった。その小説が「ノルウェイの森」であり、村上氏が一人の作家から日本を代表する作家に変わるきっかけとなった。
1990年秋、ヨーロッパから帰國(guó)した村上氏は、落ち著いて執(zhí)筆できる環(huán)境を求めて、再び荷物をまとめて日本を出て、米ニュージャージー州のプリンストンへ向かった。そこでの滯在期間中に、「國(guó)境の南、太陽(yáng)の西」と「ねじまき鳥(niǎo)クロニクル」を執(zhí)筆した。
村上氏は、「規(guī)則正しい生活のおかげで長(zhǎng)年執(zhí)筆活動(dòng)を続けられている」と語(yǔ)っている。村上氏はかつてエッセイの中で自分の1日の生活について「毎朝午前4時(shí)に起床し、そこから晝までずっと執(zhí)筆。午後にはジョギングをして、その途中、中古オーディオ店に立ち寄る。午後9時(shí)には妻と一緒に家に帰る」とつづっている。
▼受賞逃し続けるノーベル文學(xué)賞:あまり関心はない
突然小説家になろうと思ったときと同じく、村上氏は1982年秋にジョギングを始め、それから30年以上続けている。1991年には、フルマラソンを3時(shí)間27分で完走という自己ベスト記録を出した。これは5分で1キロを走りきるスピード。あるネットユーザーはこれをネタに「村上春樹(shù)はジョギングがこんなに好きだから、『ノーベル文學(xué)賞受賞のレースでもただ出走するだけ』という宿命を背負(fù)わされてしまったんじゃないの?」とコメントしているほどだ。
しかし、村上氏はそのようには思っていないようだ。ノーベル文學(xué)賞受賞とその「萬(wàn)年有力候補(bǔ)」と言われていることに関して村上氏は「ノーベル文學(xué)賞を受賞する可能性があるかどうかはわからないが、それ自體に興味はない。私にとって最も大切なのは読者だ。ノーベル文學(xué)賞は政治色が強(qiáng)すぎて、あまり関心はない」と語(yǔ)った。
もしノーベル文學(xué)賞を受賞したとしても、村上氏にとっては「悪夢(mèng)」でしかないかもしれない。なぜなら村上氏はかつて、「私は式典やスピーチ、パーティーが一番苦手だ。この3つが合わさるのは私にとっては悪夢(mèng)以外のなにものでもない」と語(yǔ)ったことがあるからだ。(提供/人民網(wǎng)日本語(yǔ)版?編集YK)
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