八牧浩行 2016年10月22日(土) 10時(shí)30分
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第2次世界大戦後に行われた舊満州(現(xiàn)中國東北部)や朝鮮半島、樺太、臺(tái)灣からの引き揚(yáng)げ體験を語り、次世代に継承する「引揚(yáng)70周年記念の集い」が、東京?中央?yún)^(qū)で開催された。引き揚(yáng)げ體験者や一般市民などおよそ約700人が參加した。寫真は會(huì)場風(fēng)景。
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2016年10月20日、第2次世界大戦後に行われた舊満州(現(xiàn)中國東北部)や朝鮮半島、樺太、臺(tái)灣からの引き揚(yáng)げ體験を語り、次世代に継承する「引揚(yáng)70周年記念の集い」(國際善隣協(xié)會(huì)主催、厚生労働省など後援)が、東京?中央?yún)^(qū)で開催された。引き揚(yáng)げ體験者や一般市民などおよそ約700人が參加した。
【その他の寫真】
1945年の大戦終結(jié)時(shí)、アジア?太平洋地域の日本領(lǐng)や植民地には多くの日本人が居住。翌46年に本格化した本土への帰還は困難を極め、難民狀態(tài)だった。
會(huì)の冒頭、祖國に帰れないまま亡くなった人たちに黙とうを捧げた後、國文學(xué)研究資料館の加藤聖文準(zhǔn)教授が基調(diào)講演?!傅?次大戦の敗戦によって海外から國內(nèi)に引き揚(yáng)げてきた日本人は300萬人超で、引き揚(yáng)げ時(shí)の犠牲者は24萬人以上に達(dá)する大慘事だった。外地に突然放り出され、『難民』になった人も多かった」指摘した。その上で、「民間人が戦爭で住まいやふるさとを追われる事態(tài)は、今でも中東はじめ世界各地で起きており、引き揚(yáng)げの歴史を後世に語り継ぐ必要がある」と訴えた。
加藤教授によると、敗戦によって國內(nèi)に引き揚(yáng)げてきた日本人の地域別內(nèi)訳は、中國東北部の舊満州127萬人、次いで満州を除いた中國本土約49萬人、臺(tái)灣約33萬人、朝鮮半島約72萬人(うち北朝鮮約30萬人)、樺太(サハリン)約39萬人と続く。これに現(xiàn)地の死亡者30萬人を加えると約330萬人が在住していたことになる。
◆東京大空襲?広島長崎被爆?沖縄戦を上回る大慘事
満州からの引き揚(yáng)げの際の犠牲者は日ソ戦での死亡者も含めて24萬人超。そのうち8萬人は一般開拓民で、東京大空襲や広島、長崎の原爆、沖縄戦を上回る慘事だった。同時(shí)に「大日本帝國」を構(gòu)成していた「帝國臣民」は解體され、日本人と朝鮮人、臺(tái)灣人は分離された。
1945年8月のポツダム宣言受諾時(shí)に、日本政府は輸送船舶の不足や港灣の機(jī)雷封鎖、國內(nèi)での食料不足などを理由に海外殘留者の短期間での引き揚(yáng)げは不可能と判斷し、3年以上現(xiàn)地で定著?自活させる方針を打ち出していた?!皵閼Tれ”しておらず、連合國に対する楽観的な観測もあった。
しかし現(xiàn)実は日本政府の連合國への希望的観測を打ち砕いた。
(1)ソ連軍侵攻地域での混亂=ソ連軍の占領(lǐng)政策は日本資産の接収と兵士のシベリア抑留に集中。殘留日本人の保護(hù)?送還に無関心だった。
(2)中國國民黨と共産黨の內(nèi)戦激化=満州への影響力浸透を図る共産黨、自力では中國全土に兵力を展開できない國民黨の対立が混亂を招いた。
ところが実際は1946年の1年間で大半が引き揚(yáng)げることができた。終戦直後、約100萬の日本陸軍の將兵は中國でほぼ無傷のまま殘留していた。米國は中國の國民黨と中國共産黨の內(nèi)戦で日本兵が傭兵化することを恐れ、本國送還を急いだのが真相である。その過程で、同時(shí)に進(jìn)められたのが満州殘留日本人の送還だった。日本ではマッカーサーの好意と思われているが、米國の対中政策の一環(huán)に過ぎなかった。300萬人もの「民族大移動(dòng)」が記憶から薄れてしまった大きな理由は、長期化し人々の記憶に深く切り刻まれたシベリア抑留と比べて、短期間で引き揚(yáng)げが終了したことだ。
◆史実に向き合い、次の世代に継承を
このあとのパネルディスカッションでは、引き揚(yáng)げ體験者の藤原作彌?元時(shí)事通信社解説委員長?日本銀行副総裁をコーディネーターに、松重充浩?日本大學(xué)文理學(xué)部教授、渡邊三男?全國樺太連盟會(huì)員(樺太生まれ)、井上卓彌?毎日新聞編集委員(『満州難民』著者)、河原功?臺(tái)灣協(xié)會(huì)理事(『臺(tái)灣引揚(yáng)?留用の記録』編者)らが、知られざる引き揚(yáng)げの実態(tài)や凄慘な実體験について語った。
藤原氏は満蒙の興安街(現(xiàn)中國內(nèi)モンゴル自治區(qū))在住の日本人避難者約1300人が、ラマ教の大寺院、葛根廟(かっこんびょう)の麓でソ連軍の攻撃を受け1000人以上が虐殺された事件で小學(xué)校の級友の大半が犠牲になった実體験を語った。
松重氏は研究者の立場から、多民族が居住した満州の多様性に著目、「時(shí)の経過とともに資料が散逸し、體験者も激減している。時(shí)間との戦いだが、丁寧に掘り下げて伝えていく必要がある」と訴えた。
井上氏は「朝鮮半島北部では沈黙を強(qiáng)いられた民間女性が多いが、悲劇的な史実は抹消の危機(jī)に直面している。北朝鮮との國交がないまま70年が経過したが、一刻も早く解明すべきだ」と強(qiáng)調(diào)した。
舊樺太(現(xiàn)サハリン)からの引き揚(yáng)げを経験した渡邊氏は「平穏だった街に、突然、舊ソ連が侵攻してきて、山に逃げ込んだが、街は爆撃を受けて多くが犠牲になった。終戦から1年以上経て、裸一貫ようやく親子でリュックサック1つだけ持って船に乗せられ、函館にたどり著いたときのことは忘れられない」と當(dāng)時(shí)を振り返った。
河原氏は「終戦後、臺(tái)灣にいた一般日本人約33萬人が引き揚(yáng)げたが、技術(shù)者を中心に2萬8000人(家族含む)が留用され、沖縄籍民1萬人の帰還は後回しにされた」と明かした。
引き揚(yáng)げ経験者の多くが高齢化しており、今回の「引揚(yáng)70周年の集い」は前回「60周年」に比べ參加者が大幅に減少した。海外からの引き揚(yáng)げは単なる日本人だけの問題ではない。世界史の中で歴史を捉え直し、次の世代にしっかり継承していくべきであろう。(八牧浩行)
■筆者プロフィール:八牧浩行
1971年時(shí)事通信社入社。 編集局経済部記者、ロンドン特派員、経済部長、常務(wù)取締役編集局長等を歴任。この間、財(cái)界、大蔵省、日銀キャップを務(wù)めたほか、歐州、米國、アフリカ、中東、アジア諸國を取材。英國?サッチャー首相、中國?李鵬首相をはじめ多くの首脳と會(huì)見。東京都日中友好協(xié)會(huì)特任顧問。時(shí)事総合研究所客員研究員。著?共著に「中國危機(jī)ー巨大化するチャイナリスクに備えよ」「寡占支配」「外國為替ハンドブック」など。趣味はマラソン(フルマラソン12回完走=東京マラソン4回)、ヴァイオリン演奏。
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