Record China 2016年11月6日(日) 1時20分
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5日、視界網(wǎng)は、「中國で死んだはずの楊貴妃の墓が、なぜ日本にあるのか」と題する記事を掲載した。寫真は馬嵬にある楊貴妃の墓。
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2016年11月5日、視界網(wǎng)は、「中國で死んだはずの楊貴妃の墓が、なぜ日本にあるのか」と題する記事を掲載した。
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楊貴妃といえば、日本では世界三大美女、中國では古代四大美女として有名な歴史上の人物。唐代の皇妃で、756年6月14日に中國で亡くなったとされている。しかし、その死には疑惑が存在する。記事は、「馬嵬(陝西省咸陽市興平県)にも楊貴妃の墓があるが、なんと日本(山口県の二尊院)にも同じく楊貴妃の墓がある。これはどういうことなのか?」と疑問を提起している。
その上で、記事は日本に伝わる伝説を紹介する。安史の亂の兵士らから原因となった楊貴妃殺害を求められた玄宗帝は、かばいきれずに楊貴妃を縊死(首つり)させたとされている。しかし、時が経ち楊貴妃の改葬が行われた際には遺體の判別がつかず、お香の入った袋だけが殘っていたことから、「侍女が替え玉となったのではないか」あるいは「蘇生したのではないか」といううわさが流れた。本人は日本に逃れたものの、ほどなく病によりこの世を去ったというのだ。
記事は、こうした説が浮上した理由について、楊貴妃が非常に慕われる性格であったこと、玄宗帝と軍の間を取り持っていたのが楊貴妃の前夫である壽王李瑁で手助けした可能性が十分にあること、楊貴妃を縊死させたとされる高力士との関係も非常に良かったこと、の3つがあると指摘。
さらに、「(楊貴妃殺害を求めた)陳玄禮らがその死を確認した」とされていることについて、中國でも「陳玄禮が皇妃の殺害を迫るという不敬に兜を脫いで許しを請うた」とされていることから、遺體を確認するというそれ以上の不敬には及ばなかったのではないかとみている。人間に首をつらせること自體容易ではなく、専門家もいなかったことから、內(nèi)侍が意図したか否かにかかわらず気絶するにとどめ、人々が去った後に蘇生した可能性に言及する。
記事は、「もちろんこれは単なる一説にすぎず、中國と日本の記録は異なる部分もある」としながら、「何が正しいかはわれわれには判斷しようがない。こうした物語は、文學(xué)蕓術(shù)に発展の余地を與え、世の人々に無限の希望と幻想をもたらしてくれる」としている。(翻訳?編集/北田)
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