八牧浩行 2017年3月18日(土) 19時40分
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中國瀋陽出身で埼玉県で洋服會社を経営する孫滌非さんは一流の紳士服職人である。畫家を目指したが、服飾ファッションに方向転換した。その波亂萬丈の半生について、インタビューした。
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中國瀋陽出身で埼玉県で洋服會社を経営する孫滌非さんは一流の紳士服職人である。畫家を目指したが、服飾ファッションに方向転換した。その波亂萬丈の半生について、インタビューした。(聞き手?八牧浩行)
【その他の寫真】
――訪日のきっかけは?
両親ともに中國の醫(yī)科大學(xué)の教授で、父は40歳代から日本との交流があり、私に日本に行くべきだと言っていた。私は美術(shù)家を志望し、在籍した瀋陽?魯迅美術(shù)大學(xué)の油絵専攻は6人しかいなかった。當(dāng)時中國では大學(xué)はすべて國立で、卒業(yè)しても簡単には外國には行けない時代だった。特に蕓術(shù)関係の大學(xué)は卒業(yè)後5年間海外に行けない制度だったが、日本の宮城教育大の大學(xué)院に合格し、やっと許可が出て、日本に來た。
その後、日本の武蔵野美大の大學(xué)院で、デザインを?qū)煿イ筏?。油絵科に進(jìn)みたかったが、受験に失敗した。加えて絵畫は特殊な分野で、仕事を見つけるのが困難である。有名な畫家にならない限り収入も安定しない。デザインなら仕事があると思った。
大學(xué)院卒業(yè)後の1989年に埼玉県八潮市に來た。最初に勤めたのは大きな工作機械を製造す會社で、図面書きを5年やった。工業(yè)デザインは設(shè)計とは異なる世界。パソコンなどなかったから全部手書きだった。手で書ける人は少なかったので仕事は多く、多忙だった。
1996年にこの會社の社長に「仕事が好きになれない」と話したところ、「それなら辭めればいい」と言われ、退職した。中國に戻った。瀋陽の中國醫(yī)大の教授だった母は60歳になり仕事が一段落したので大連醫(yī)科大に移った。
大連に戻った母から、「手伝ってあげる」といわれ、洋服の仕事をやりたいと答えた。絵を描くのは無理だと思い、決斷した。父親は日本に行ったことがあり、人民服ではなく背広を著ていた。當(dāng)時の中國人には珍しかった。
――美術(shù)からスーツに方向転換したのは?
もともと油絵を描きたかった私は、職業(yè)として絵に近いものを選びたかった。スーツは油絵と同じで平面のキャンバスを立體形にしたようなものだと考えた。母から100萬円を借りて八潮市に洋服店を開いた。最初は母が大好きだったチャイナドレスからスタートした。
私が日本で注文をとって大連で縫製してもらう。品質(zhì)問題は大変だった。ボタン穴も、普通のミシンで縫い、後でハサミで切る。大連の工場が誕生するきっかけになった。母がこの中國法人の會長として頑張ってくれた。
中華服は珍しいから事業(yè)はうまくいった。店ができてから、チャイナドレスブームとなり、大流行。キャバレーなど夜の店の若い女性客が殺到した。その後職人は26人に増え、もっと仕事を受注しようということでスーツに進(jìn)出した。最初はコナカの禮服を扱った。手縫いを入れてくれと言われ、300枚縫った。中國人は手先が器用なので評判となった。
京都の客がいきなりやってきて、「ハンドメイドの仕事を一緒にやりませんか」と言われた。2001年ぐらいのことで、スーツが好きになった。イタリアの先生と日本の先生に大連に來てもらってゼロから覚えた。辛い日々だった。通訳は私で、言葉を訳するとによって技術(shù)を習(xí)得、専門特殊用語も覚えた。彼らは納得するまで私を教える。ものすごいスピードで勉強できた。
スーツのプロになった。かつて學(xué)んだ美術(shù)の基本が生きた。量産では形が崩れるが、孫さんの腕はすごいねと言われ、ますます好きになった。
――本場イタリアの技術(shù)も習(xí)得したとか?
イタリアの先生とは喧嘩しながら、技術(shù)を?qū)Wんだ。アジア人を馬鹿するところがあり、悔しいので頑張った。だんだん知名度も上がり、スーツの仕事にシフトした。2003年ぐらいからファッション誌の取材が多くなり、毎月のように取材が來て工場を見學(xué)させた?!弗供`ツの青山」も工場に注文に來て、8年間に渡り最高レベルの製品を納品した?!弗供`ツカンパニー」では、ユニバーサル、パターンデザインのほか、糸とか色デザインもなど全てを私が提案した。
工場は私のプラン通りに回転した。イタリアのナポリは世界で最も人気があるナポリ?スタイルの中心。イタリア人の大先生につき、2005年までに大分自信がついた。大先生からこれ以上教えることはないと言われた。
商品としては百點満點と評価されたが、「日本やアジアに行ったことあるが、大量生産ものばかりで人間が著るスーツではない」と批判された?!弗ⅴ弗⑷摔悉膜毪韦蠠o理」とまで言われた?!复螭圣圣荪辘翁枻蛞姢皮撙胜丹?。その下で、イタリア人は素足で遊び、美術(shù)館や博物館を見て育っているので感性がある」と語っていた。
しかし私は大學(xué)で美術(shù)を?qū)煿イ筏骏抓恧扦ⅳ?、中世イタリアのルネッサンスなどの勉強をしたのに!と大反発した?!弗ぅ骏辚ⅳ未笙壬摔悉长煲陨辖踏à皮猡椁铯胜い扦いぁ工人激?、禮儀正しく円満に分かれた。
――世界一の夢の実現(xiàn)は?
世界一になろうと思った?!秆蠓吻嗌健工群献鳏贰⒏邊б妞坤盲郡韦谴筮Bに戻った。當(dāng)初、騒々しい工場団地で作業(yè)をしていたが、最高級のマンションに入居し、最高級の部屋に工房を入れた。大理石の臺を使うなど環(huán)境づくりに力を入れ、美的感性を取り入れた。しかし人を変えるのは大変なこと。職人たちから「普通の工場の方が仕事しやすい。大理石のトイレでは用が足せない」と言われた。
中國も少しずつ変化していた。大量生産はどうしても客に思いが伝わらないと思い、2014年の後半に大量生産をやめオーダーメイドに切り変えた。辛い決斷であり、大量生産と違い利益が激減した。青山から「名前(孫)と同じようにソンするよ」と言われたこともある。切り替えはきつかったが、個々の顧客のためにスーツをつくりたい、「一人様」から褒めてもらいたいと考えた。大量生産では直接顧客との対話はできないと思った。かつて大成功したので挫折感を感じる2年間だった。
いきなり従業(yè)員60人に辭めてもらい、現(xiàn)在45人を殘して最高峰をめざしている。不安を感じたりする人が多かった。大量生産は終わるのではないかと思う。2?3年で洋服関係の大量生産の工場は日本はもちろん中國でもつぶれるのではないか。
今、オーダーメイドの時代が到來したと思う。いろいろなテーラー(洋服職人)がいる。青山との取引時代のは小売りはしていなかったので直接消費者と會うことはできなかったが、水準(zhǔn)は高かった。
今付き合っている「街のテーラー」は視野が狹い。オーダーメイドに切り替えた段階で単なるスーツ作りだけでなく教養(yǎng)性、文化、蕓術(shù)性が必要。現(xiàn)実は教養(yǎng)性がなくてスーツ技術(shù)はあるが、何をつくるか分からない。
「孫さん中國人でしょ。つくるものは中國製でしょ」「メイドインジャパンものををつくりたいですよ」といった(偏見的な)聲も聞こえてくる。青山、伊藤忠など大きな會社は國籍的なこだわりはなかった。
最高峰のオーダーメイドの世界は理想と現(xiàn)実とのギャップが大きい。挫折感もある。國籍を変えるか、噓をついて「日本製」にレベルを変えるかだが、両方ともできない。二十?dāng)?shù)年も日本に在住し、日本人より日本を愛している。中國よりも日本社會に育てられている。教えてくれたのも日本人で、生かしてくれたのも日本人に會社。今でも好きなのにすごく殘念だ。
テーラーを経営する人間にとっては、まず心の包容力が必要だ。親に「人の悪口言ってはいけない。人の悪口を言うのは自分の視野が狹くなる。自分の価値観そのものが悪くなる」と言われて育った。日本では閉塞感があり、これを表面に出す若者が増えている。
2015年まで5年間中國の美術(shù)大學(xué)に招へいされて教鞭をとった。理想を持ってやったが、考え方をすべて共産黨の方針に合せなければならない。しかもパワフルな人たちなので怖いところもある。一區(qū)切りがついたが、私だけではどうにもならない。
――日本と中國の違いは?
講座を開いたが、學(xué)長に文句を言われた。いついつの講義で「日本を褒めた」と。それならどうして私を講義に呼んだのか。彼らは日本車に乗っているし、日本旅行も行くのにと思う。噓だらけで、皆押し黙っている。知らないのに悪いと決めつけるのはダメ。日本に20年もいて大変だったんでしょ。それで中國に戻ったんでしょと言われる。
日本人は島國根性で謙虛。中國人は力は無限だが、自信がなく劣等感を持つ人ほど威張っている。爆買いに走る。國民の視線を當(dāng)局は気にしている。
中國の人たちは一番分かっている。戦爭する気もない。町のテーラーでも存在理由がある。職業(yè)に対する愛情などどの國にもあり、頑張ろうという気になる。
夢はいいもの作ることだが、30年前のことしか思いつかない。文化を反映させることが必要だが、消費者の多くは分からない。プロとしての愛情が大切だと思う?!?/p>
中國人は分からない面があるが、日本人は大好き。日本はいいですよ。一番の私の夢は日本の男をカッコ良くしたい。人間は理屈よりも感性で生きた方が幸せであり、私の原點は油絵だ。
◆孫滌非氏プロフィール
1967年中國?大連生まれ、現(xiàn)在?埼玉県八潮市在住 洋服會社経営
1985?89年、魯迅美術(shù)學(xué)院造型専攻(學(xué)士)
1990?92年、宮城教育大學(xué)グラフィックデザイン専攻(修士)
1997年、中國市場(テーラー)代表者
2000年、大連雙葉服飾有限公司(中國法人)首席設(shè)計師
2003年、有限會社ディフェイ(日本法人)代表取締役
2006年、迪菲洋服?チーフデザイナー
2010年、中央美術(shù)學(xué)院城市設(shè)計學(xué)院軟織研究室?主任教授
2011年、大連工業(yè)大學(xué)服裝學(xué)院?客座教授
2011年、大連工業(yè)大學(xué)蕓術(shù)與信息學(xué)院?客座教授
■筆者プロフィール:八牧浩行
1971年時事通信社入社。 編集局経済部記者、ロンドン特派員、経済部長、常務(wù)取締役編集局長等を歴任。この間、財界、大蔵省、日銀キャップを務(wù)めたほか、歐州、米國、アフリカ、中東、アジア諸國を取材。英國?サッチャー首相、中國?李鵬首相をはじめ多くの首脳と會見。東京都日中友好協(xié)會特任顧問。時事総合研究所客員研究員。著?共著に「中國危機ー巨大化するチャイナリスクに備えよ」「寡占支配」「外國為替ハンドブック」など。趣味はマラソン(フルマラソン12回完走=東京マラソン4回)、ヴァイオリン演奏。
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