アルバイト先の韓國(guó)料理店に3人の日本人客、あの時(shí)のことを思い出すと悔しさがあふれる―中國(guó)人學(xué)生

日本僑報(bào)社    2017年2月25日(土) 13時(shí)10分

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「自分は客観的に物事を見(jiàn)ている」と思っていても、知らず知らずのうちに人や物に固定観念やレッテルを貼っていることがある。そう主張するのは青島農(nóng)業(yè)大學(xué)の張敏さんだ。資料寫真。

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「自分は客観的に物事を見(jiàn)ている」と思っていても、知らず知らずのうちに人や物に固定観念やレッテルを貼っていることがある――。そう主張する青島農(nóng)業(yè)大學(xué)の張敏さんは、日本人との出會(huì)いを無(wú)駄にした後悔から、偏見(jiàn)を持つことの恐ろしさを作文に次のようにつづっている。

その他の寫真

數(shù)日前に勉強(qiáng)した『文化論の落とし穴』の中で、山崎正和先生は「人間には誰(shuí)にも他國(guó)の文化や他民族の民族性について、安易な固定観念を抱いて安心する癖があるらしい」と言った。元來(lái)、私はこういう人間の一人ではないと思っていたが、現(xiàn)実は私も同じだったようだ。

ある暑い夏の日、わずかな客の韓國(guó)料理店でアルバイトしている私がカウンターの前でメニューを見(jiàn)ていると、二人の男性と一人の女性が話しながらその店に入ってきた。外見(jiàn)が中國(guó)人と似ていたので、いつもその店に來(lái)るお客と同じように、中國(guó)の朝鮮族の人たちかもしれないと思った。そのため、中國(guó)語(yǔ)で「いらっしゃいませ」と挨拶しながら、メニューを手渡した。背が高い男性は私に不自然な中國(guó)語(yǔ)で店長(zhǎng)は今いるかと尋ねた。店長(zhǎng)はその時(shí)不在だったので「さっき出かけたばかりだ」と答えた。そして、その男性はそれ以上何も話さず料理を注文した。そのうちに、彼は他の二人に日本語(yǔ)で「店長(zhǎng)は日本語(yǔ)ができる」と言った。私は、彼が日本語(yǔ)を話したことに驚いた。その時(shí)、私は大學(xué)で日本語(yǔ)を勉強(qiáng)して2カ月だった。

私が緊張しながら日本人かと尋ねると、彼は「はい、日本人です」と答えた。私は感動(dòng)しながら「私は青島農(nóng)業(yè)大學(xué)の日本語(yǔ)學(xué)科の1年生です」と授業(yè)で習(xí)った自己紹介の文をそのまま話した。先生に向かって文章を暗唱しているようだった。その時(shí)、私は授業(yè)の中で勉強(qiáng)した店員の會(huì)話を必死に思い出そうとしていた。しかし、緊張していたので、掌から汗が出てきた。そして、「お休みなさい」の言葉が思わず口をついて出てしまった?!袱ǎ郡荬撙胜丹い扦悉胜?、いらっしゃいませでしょう?」と背の高い男性が私に教えた。眼鏡をかけている男性は長(zhǎng)い話をしたが、初心者の私は全く聞き取れなかった。幸いなことに背が高い男性は少し中國(guó)語(yǔ)ができた。三人の中の女性は語(yǔ)學(xué)學(xué)校で日本語(yǔ)教師として勤めているようで、中國(guó)語(yǔ)が流暢に話せるということは、その男性との通訳から分かった。

日本語(yǔ)學(xué)科の學(xué)生として、これは良いチャンスだったが、當(dāng)時(shí)の私の印象では世界で最も冷淡な人はドイツ人と日本人だった。両者は感情表現(xiàn)の方法が違う。ドイツ人は冷たい表情をしているが、日本人はいつもよくわからない微笑を浮かべる。日本人は曖昧すぎると思っていた。彼らの話は冗談かどうかわからず、その後、私はかすかに笑って他のことをしに行った。しかし、私は困っていた。もし電話番號(hào)を交換すれば、日本語(yǔ)で會(huì)話することができ、自分の日本語(yǔ)が上手になるかもしれないめったにないチャンスだと思った。その一方で、日本人は曖昧なので、ただの社交辭令を言われるかもしれないと思った。結(jié)局、私は何もせずに「さよなら」だけを言った。

そのことを思い出すと、心の中で悔しさがあふれ出る。その時(shí)、なぜ勇気を出して連絡(luò)先を聞かなかったのか、なぜそのような狹い考えを持ってしまったのかとよく自問(wèn)することがある。その文章を読んで、私自身の體験につながり、長(zhǎng)らく語(yǔ)り継がれてきた日本人への先入観は怖いものだと思った。私は他人に固定観念のレッテルを張るという事実を理解できるようになった。文章で書かれているように、「文化論的なレッテル張りがいささか危険な域に達(dá)しているように見(jiàn)える」ということがある。先入観やレッテルなどは色眼鏡に似ている。このような「色眼鏡」をかける人たちには真の現(xiàn)実が見(jiàn)えないと思う。日中の青年は互いの國(guó)に固定観念を捨てて、自分自身で互いの文化を體験すべきだと思う。(編集/北田

※本文は、第十一回中國(guó)人の日本語(yǔ)作文コンクール受賞作品集「なんでそうなるの?中國(guó)の若者は日本のココが理解できない」(段躍中編、日本僑報(bào)社、2015年)より、張敏さん(青島農(nóng)業(yè)大學(xué))の作品「『色眼鏡』をはずそう」を編集したものです。文中の表現(xiàn)は基本的に原文のまま記載しています。なお、作文は日本僑報(bào)社の許可を得て掲載しています。

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