「なんだ、日本人って怖くないんだ」=戦爭(zhēng)ドラマで見た憎らしいイメージが変わった瞬間―中國(guó)人學(xué)生

日本僑報(bào)社    2017年3月19日(日) 12時(shí)20分

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中國(guó)の大學(xué)では、入試の結(jié)果によって必ずしも希望した學(xué)科に入れるとは限らない。そのうちの一人だった蘭州理工大學(xué)の白宇さんは、日本語に興味がなかった自分を変えてくれた2人の日本人の先生について、作文につづっている。寫真は蘭州市。

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中國(guó)の大學(xué)では、入試の結(jié)果によって學(xué)科間の調(diào)整が行われることがあるため、必ずしも希望した學(xué)科に入れるとは限らない。そして、日本語を?qū)煿イ工雽W(xué)生の中には、こうして不本意ながら入學(xué)したという人も少なからずいる。そのうちの一人だった蘭州理工大學(xué)の白宇さんは、日本語に興味がなかった自分を変えてくれた2人の日本人の先生について、作文に次のようにつづっている。

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大學(xué)の専門が決まった日のことは今でも覚えている。私が遠(yuǎn)く蘭州まで行って日本語を勉強(qiáng)すると聞いて、友達(dá)は皆馬鹿にしたように笑った。両親の「もう1年、浪人して頑張る?」という言葉が、傷だらけの私の心にとどめを刺した。浪人する勇気もなかった私は、入學(xué)後、専門を変えることだけに望みを託した。蘭州まで付き添ってくれた母は私の將來を悲観して、帰りの電車で泣き続けたという。2012年、小さな島をめぐって日中関係が最悪となった、その年のことだった。

大學(xué)の初日、初めての授業(yè)にやってきたのは、なんと日本人の先生だった。それまで日本人と聞いて頭に思い浮かぶのは、戦爭(zhēng)ドラマで見たあの憎らしい顔だけだった。ところが、教室にやって來たのは可愛らしい女性で、最初はクラスメートだと思った。教壇に立つと、彼女は知らない言葉で話を始めた。唯一聞き取れたのは「早上好(おはようございます)」だけ。英語と、少しの中國(guó)語を黒板に書いて交流した。彼女は最初から最後までずっと笑顔だった。なんだ、怖くないんだ、日本人も。授業(yè)の後は自分で黒板まで消して、「また明日ね」と言うと、また微笑んだ。

その先生は丹波江里佳と言い、ご主人も先生だった。姓が同じなので、江里佳先生、秀夫先生と名前で呼んだ。先生は「子どもみたい」と笑ったが、なんだか親密な感じがして、その呼び方が好きだった。私は、もうちょっと日本語を勉強(qiáng)してもいいかなと思った。その後、江里佳先生と相互學(xué)習(xí)を始め、私は日本語、先生は中國(guó)語で會(huì)話を重ねた。私が大事な試験や大會(huì)を控えた時(shí)は、先生からたくさんのアドバイスとパワーをもらった。

1年が終わる頃、私の成績(jī)は學(xué)年で一番になっていた。いつの間にか、専門を変えようという気持ちはなくなっていた。ある日、秀夫先生から呼び出され、江里佳先生が突然帰國(guó)することになったと聞かされた。もう、蘭州には戻らない。その瞬間、私は言葉を失い、目からは涙が溢れ出した。他人に弱みを見せることが何より嫌いだったはずの私が、何も言えずに、ただ泣き続けた。ただ一人の日本人の前で、ただ一人の日本人のために。

江里佳先生が帰國(guó)した後は、秀夫先生と相互學(xué)習(xí)を続けた。今だから言うと、最初は江里佳先生には誰も代われないと思っていた。秀夫先生は私たちの授業(yè)を擔(dān)當(dāng)したことがなかったので、冗談を言い合うことも少なかった。やっぱり江里佳先生のほうがいい、とこっそり思った。去年の5月、蘭州で大きなスピーチ大會(huì)が行われることになった。地區(qū)予選で優(yōu)勝すれば日本での決勝に行けると聞き、とてもワクワクした。日本で、また江里佳先生に會(huì)える!しかし、參加を決めてか大會(huì)まで1カ月もなく、まだ原稿もなかった。

思い切って秀夫先生に指導(dǎo)をお願(yuàn)いすると、先生は快く引き受けてくれた?!袱扦?、私が指導(dǎo)する以上は厳しいよ?『全力を盡くす』、それが唯一の、そして絶対に守ってほしい約束」という秀夫先生に、私はドキドキしながら頷いた。それから毎日、秀夫先生と夜遅くまで練習(xí)した。発音から、アクセント、イントネーション、表情、身振り手振りまで、二人で一緒に考えた。大會(huì)當(dāng)日、私の優(yōu)勝が決まった時(shí)、先生は誰よりも嬉しそうに微笑んでいた。その笑顔を見た瞬間に気づいた。秀夫先生もまた、かけがえのない存在になっていたのだ。

東京の決勝では全力を盡くしたものの、結(jié)局、私が優(yōu)勝することはなかった。周囲は決勝に進(jìn)めただけで十分だと言ってくれたが、內(nèi)心悔しくてたまらなかった。そんな私の性格をよく知る江里佳先生がくれた長(zhǎng)い応援メッセージは、私の一生の寶物になった。

思い返すと涙が出てくる。4年間、私を支え続けてくれた先生方。辛い時(shí)、苦しい時(shí)、私はいつも二人の笑顔を思い出す。すると、また次の一歩を踏み出す勇気が湧いてくる。今年、私は大學(xué)院へ進(jìn)學(xué)する。専門は日本語。今なら相手が誰であろうと、私は胸を張って言える。「私の専門は日本語です」と。(編集/北田

※本文は、第十二回中國(guó)人の日本語作文コンクール受賞作品集「訪日中國(guó)人『爆買い』以外にできること」(段躍中編、日本僑報(bào)社、2016年)より、白宇さん(蘭州理工大學(xué))の作品「二人の先生の笑顔が私に大切なことを教えてくれた」を編集したものです。文中の表現(xiàn)は基本的に原文のまま記載しています。なお、作文は日本僑報(bào)社の許可を得て掲載しています。

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