太極拳の達人はマイク?タイソンに勝たねばならないのか―中國紙

環(huán)球網(wǎng)    2017年5月4日(木) 1時10分

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環(huán)球時報のコメンテーターである?yún)g仁平氏が、「現(xiàn)代太極拳の達人はタイソンに勝たねばならないのか」と題する文章を寄せた。寫真は太極拳。

環(huán)球時報のコメンテーターである?yún)g仁平氏が、「現(xiàn)代太極拳の達人はタイソンに勝たねばならないのか」と題する文章を寄せた。

中國の「格闘狂人」と呼ばれる徐暁冬さんが、「雷公太極」と名乗る太極拳の達人である雷雷さんを20秒足らずで打ち負かした動畫が中國のネットで話題になった?!钢袊湫gは無用の長物だ」とまで語る聲もあり、中國武術を罵倒する掲示板スレッドまで現(xiàn)れた。中國武術をめぐる議論が激しさを増す中で、「中國獨特の神秘主義が民族的悲哀と混ざり合った時、中國武術をめぐる想念は霍元甲やイップ?マン葉問)などの神話を作り出した」と指摘する文章が反響を呼んだ。

「太極拳の達人はタイソンに勝てるか」という疑問にはこう答えるしかない――太極拳の選手にはタイソンのようにがっちりした體格の人が少ないから、タイソンに勝てる人はまれにしかいない。だが、もしタイソンのような體格を持った人が太極拳を修めているのなら、勝敗は分からないだろう。

中國武術は、その起源を獨特の歴史的な環(huán)境に求めることができる。武器の開発が進まず、肉體が最大の武器だった「冷兵器時代」だ。中國社會は神秘主義に満ちあふれ、あらゆる武術の流派が登場した。武術は「水滸伝の世界」で重要な意義を持つ。武術の流行は中國社會が無秩序に混亂を極めていたことの裏返しでもあった。だが、あらゆる武術の流派が登場したことは、そうした世界に秩序をもたらしたとも言える。弱肉強食の秩序ではあるが、ないよりはましだからだ。

中國の武俠小説は武術を神格化する。それは武術の枠を超えて、精神性までも具備するに至る。このような事例は、世界のあらゆる文化に存在している。それらに共通するのは「忠義」と「勧善懲悪」を掲げる世界観だ。これらは科學的な現(xiàn)代社會にも通用する価値観だと言うことができるだろう。

しかし、現(xiàn)代社會は武術が盛んになった往時とは違う。武術を用いる機會が皆無になった今日では、武術の退化が起きた。武術の変化は二つの方向に分かれる。一方は格闘技へ、もう一方は心身を鍛練する修身の術だ。中國の武術愛好家たちは、後者を選ぶのが大半だ。

「試合で勝負を決める」という昔からの考え方の影響を受けて、「中國武術大師VSマイク?タイソン、武術大師が勝てるのか」という問いが出てきた。だが、荒唐無稽に思われるこの問いの中にも道理がある。

中國武術界は、今では武術の実際的な有用性が衰えるようになったことを認識した上で、流派にこだわらない「散打」という格闘技を作り出した。だが、散打はテレビコマーシャルの宣伝や長い歴史もなく、オリンピックで戦われるさまざまな格闘技に圧倒されている。そのため、必ずしも將來が明るいとは限らない。

今日のいわゆる「武術大師」には、お金をだまし取るための詐欺大師が存在する。これは武術界特有のものではなく、中國社會全體の縮図に過ぎない。武術界の詐欺師を摘発することはぜひとも進めていかなければならないが、中國武術そのものが腐敗しているわけではない。少數(shù)の詐欺師の存在を理由として、太極拳や少林寺拳法などの中國武術の全てを偽物武術だと咎めるのは行き過ぎだ。

太極拳は中國社會の隅々にまで広がっている。大衆(zhòng)の関心を集めるため、目立つように試合で勝負を決めるというやり方は、太極拳が持っている元來の文化にそぐわない。

今日、太極拳はラジオ體操のように心身を鍛練するためのエクササイズとして定著しつつあり、一方では伝統(tǒng)文化として尊重されてもいる。伝統(tǒng)文化の尊重は、歴史を通して今を生きる世代の自尊心と自己肯定感を満たすことにも繋がっていく。「イップ?マン」のような武術家の映畫とその物語が今日に伝わっているのも悪くはないだろう。(提供/環(huán)球網(wǎng)?編集/インナ、黃テイ)

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