<在日中國人のブログ>あのころ中國人は日本に憧れ手本としていた…、私の記憶の中の「日中関係史」

黃 文葦    2017年5月13日(土) 11時(shí)30分

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今年は日中國交正?;?5周年の節(jié)目だ。半世紀(jì)以來、中國人の対日感情はいつみても波瀾萬丈である。ある意味で、中國人一人一人の記憶の中に獨(dú)特な「日中関係史」がある。そして、私の自分なりの記憶の中の「日中関係史」を語ってみたい。筆者提供。

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今年は日中國交正常化45周年の節(jié)目だ。半世紀(jì)以來、中國人の対日感情はいつみても波瀾萬丈である。ある意味で、中國人一人一人の記憶の中に獨(dú)特な「日中関係史」がある。そして、私の自分なりの記憶の中の「日中関係史」を語ってみたい。

その他の寫真

70年代末から80年代中期まで、中國の改革開放がスタートした時(shí)期に日本の映畫?ドラマ?音楽が中國に輸入された。その時(shí)に多くの中國人が初めて日本文化に接觸する機(jī)會(huì)を得た。日本の指揮家?小澤征爾も中國を訪問し、彼の不思議な風(fēng)采および交響曲が大勢の中國人を魅了した。

高倉健、山口百恵など日本の役者が中國で大人気となった。中國人が日本のスターに夢中になっただけでなく、日本の映畫?ドラマの映る資本主義の生活ぶりに非常に憧れていた?!妇裎拿鳏任镔|(zhì)文明と共に発展せよ」とは政府のスローガンだったが、あの時(shí)代の中國人にとって、「精神」でも「物質(zhì)」でも、日本は良い手本である。

80年代初頭、商船會(huì)社に勤めていた父が、毎年2、3回日本の橫浜など港へ出かけた。ある日、父が三洋の白黒テレビを持って帰った。そのテレビは子供だった私にとって、魔法のようなものだった。その時(shí)代、中國ではテレビはぜいたく品だったのだ。その後、さらに父は日立のステレオテープレコーダーを買った。日本のレコーダーで臺(tái)灣のテレサテンの歌を聴くのは、當(dāng)時(shí)最高のぜいたくであったと言える。

もう1つ、當(dāng)時(shí)の學(xué)校の地理の先生が授業(yè)中に世界地図の中の日本を指して冗談半分で「ここは小日本だ」と言っていたことが心に殘っているエピソードだ。さらに「日本は小さな國だが、すごい國だ??茖W(xué)技術(shù)のレベルは中國よりかなり高い。私は日本のカメラを愛用しているよ」と教えてくれた。

「80年代の日中の友好的な感情が今日まで続くことができたらいいな」と、今になっても私は時(shí)々そう思う。殘念ながらその後は、國の間の利益の爭いや政治的な原因で國民の感情が操られているようであった。

1990年代以後、中國では役人腐敗?社會(huì)格差など問題が深刻になっていた。同時(shí)に、各地で「愛國教育基地」が続々設(shè)立された。愛國主義教育は反日教育ではないけれども、抗日戦爭記念館は重要な愛國教育基地の1つである??谷沼钞?ドラマがどんどん放送されていた。90年代中期以後、中國人は日本に対する感情が冷ややかになって、多少敵対視していた。

90年代中期、故郷のある新聞に「日本人と結(jié)婚してはいけない」というタイトルの文章が掲載されたことを私は克明に覚えている。1人の女性作家が書いたもので、文章の趣旨とは「日本人は歴史認(rèn)識(shí)さえはっきり示していない。歴史を否認(rèn)する日本人がたくさんいる。人間としてよくない。だから、日本人と結(jié)婚してはいけない」というものだ。今思うと、それは失笑ものの內(nèi)容だったのが、その時(shí)代には通用する考え方だ。

21世紀(jì)の初頭、ちょうど中國経済が高度成長にあたる時(shí)期、日中関係は海上の波のように変化が激しかった?!刚浣U熱」という言葉が日中両國の実態(tài)で生まれた。日中間で経済交流が活発化するにつれて、人の流れも加速してきた。その時(shí)期、中國人の対日感情が最も複雑になっていて、インターネットの普及によって大都市では若者を中心に日本のファッション?ポピュラーカルチャーにますます関心を示す一方、國民感情が政治に影響されやすい傾向が顕著だった。

日本製品は信頼するが、歴史と政治問題では日本を懐疑し、経済力は日本を追い抜いたことからもたらされた高揚(yáng)感など、これらの複雑な感情を抱いたまま、中國人が日本旅行を始めた。2010年代に入ってから、日本のマスコミで「中國富裕層」という言葉がしばしば使われ、「爆買い」も流行語になった。

知人の中に確かな「中國富裕層」の人物がいる。彼は90年代から年に2、3回仕事や旅行のために日本へ來る?!?0年代に初めて日本に來た時(shí)、銀座がまるでフェアリーランドのような存在であった。十?dāng)?shù)年後、再び銀座をみたら、普通だった。上海より古いし、中國がすでに日本を追いついた、という感じだね。時(shí)代が変わったね」と語っている。彼の話から、裕福になった中國人の晴れ晴れとした気持ちや意気揚(yáng)揚(yáng)とした様子が垣間見えた。

昨年から、中國人観光客の訪日観光が「爆買い」からディープな旅行に変化しているようだ。最近、ある中國旅行サイトの編集者から相談があった?!笘|京6時(shí)間旅」という旅行プランを立てたいと言われた。個(gè)人旅行者に対し、「東京散歩」を1日案內(nèi)するというもので、旅行者が東京の細(xì)部まで味わえるとても面白い旅だ。

現(xiàn)在、日本人と中國人の間には、まだ感情や情報(bào)面でへだたりがあることは否定できないものの、旅を通して中國人が日本を認(rèn)識(shí)しようとしている。外國に対し、政府のスポークスマンが怒っても、國民が怒る必要はない。自分の目で世界を見て、自分の心で物事を判斷する。それこそ本當(dāng)の意味で人生が豊かになると私は思う。

余談だが、父が90年代初頭以後、仕事の異動(dòng)で日本へ來られなくなった。父の記憶の中の日本は80年代のままだ。すなわち中國人にとって最も憧れの「日本」であるに違いない?!冈悉韦妞辘猡幛欷ぁ埂笝M浜の人がやさしい」…。時(shí)代が変わっても、父がいつもこういうふうに日本を回想している。もし、今70代の父が再び日本に來たら、どういう印象を受けるだろうか。

■筆者プロフィール:黃 文葦

在日中國人作家。日中の大學(xué)でマスコミを?qū)煿イ?、両國のマスコミに従事。十?dāng)?shù)年間マスコミの現(xiàn)場を経験した後、2009年から留學(xué)生教育に攜わる仕事に従事。2015年日本のある學(xué)校法人の理事に就任?,F(xiàn)在、教育?社會(huì)?文化領(lǐng)域の課題を中心に、関連のコラムを執(zhí)筆中。2000年の來日以降、中國語と日本語の言語で執(zhí)筆すること及び両國の「真実」を相手國に伝えることを模索している。

■筆者プロフィール:黃 文葦

在日中國人作家。日中の大學(xué)でマスコミを?qū)煿イ?、両國のマスコミに従事。十?dāng)?shù)年間マスコミの現(xiàn)場を経験した後、2009年から留學(xué)生教育に攜わる仕事に従事。2015年日本のある學(xué)校法人の理事に就任?,F(xiàn)在、教育?社會(huì)?文化領(lǐng)域の課題を中心に、関連のコラムを執(zhí)筆中。2000年の來日以降、中國語と日本語の言語で執(zhí)筆すること及び両國の「真実」を相手國に伝えることを模索している。

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