<コラム>日中の157年前の驚きの一致=その時、日本と中國の近代史が変わった

工藤 和直    2017年6月22日(木) 23時20分

拡大

日中の西洋列強(qiáng)による侵略の前哨戦はアヘン戦爭とペリーの浦賀來航で、わずか13年の違いだが、近代化のスタートは中國が43年遅れる事態(tài)となったのは、日中とも同じ西暦1860年が歴史のターニングポイントになっているのに驚きを覚える。寫真は筆者提供。

(1 / 3 枚)

日本の近代史は1868年9月8日の明治維新から始まった。同じく中國の近代史は1911年10月10日の辛亥革命から始まる。西洋列強(qiáng)による侵略の前哨戦はアヘン戦爭(1840年)とペリーの浦賀來航(1853年)で、わずか13年の違いだが、近代化のスタートは中國が43年遅れる事態(tài)となったのは、日中とも同じ西暦1860年が歴史のターニングポイントになっているのに驚きを覚える。その西暦1860年とは、日本は桜田門外の変が起こった3月3日、中國では太平天國軍が第一次上海攻撃を開始した8月18日である。

その他の寫真

安政7年3月3日(西暦1860年3月24日)に江戸城桜田門外(寫真1:現(xiàn)在の東京都千代田區(qū)霞が関)で水戸藩の脫藩者17名と薩摩藩士1名が彥根藩の行列を襲撃、大老井伊直弼を暗殺した事件である。江戸幕府の最高の権威者が市中で慘殺される事態(tài)とは、當(dāng)時では考えられない大事件である。薩摩藩士?有村次左衛(wèi)門(ありむらじざえもん)が発した薩摩自顕流の猿叫(キャアーッという気合い)とともに振り下ろした薩摩刀によって、直弼は斬首された。襲撃開始から直弼殺戮まで、僅か十?dāng)?shù)分の出來事だった(寫真2:當(dāng)時の概略図)。

この暗殺事件を起した浪士は罪人となり、この桜田門外の変で長年持続した江戸幕府の権威が大きく失墜、尊王攘夷運動が激化する端緒となった。ここからわずか7年と7カ月後の慶応3年(1867年)10月14日、第15代將軍?徳川慶喜によって大政奉還が成され、同年の江戸開城により急転直下で明治維新(1868年9月8日)と成る要因に、桜田門外の変が直接的な起點となった。この3月3日が、日本近代化へのターニングポイントとなったと言っても過言ではない。

太平天國の亂は、清朝1851年に起こった大規(guī)模な社會主義革命。洪秀全を天王とし、キリスト教の信仰を紐帯とした組織「太平天國」によって起きた。洪秀全はキリスト教の教えの中でも特に上帝が唯一神であることを強(qiáng)く意識し、偶像破壊を熱心に行った。1847年、太平天國の前身組織「拝上帝會」を広西省桂平県金田村に創(chuàng)設(shè)。1850年、拝上帝會は金田村に集結(jié)して団営という軍事組織を結(jié)成した。金田村に集結(jié)する過程で、清朝の軍隊や自警団との小競り合いが発生、數(shù)萬人の清軍を打ち破り、革命の火蓋を切った(金田蜂起)。1852年12月下旬には漢陽?漢口を落城させ、ついに1853年(咸豊三年)1月には武昌を落とした。3月19日に太平天國軍は江寧(南京)を陥落させ、ここを天京(てんけい)と改名し、太平天國の王朝を立てた。

4月27日、英國公使George Bonhamは「英國は、太平天國にも清國にも中立であること」を告げた。太平天國はキリスト教を信仰の中心としたので、歐米列強(qiáng)からは歓迎され、中國史上最初の社會主義革命が成就する方向にあったが、その後の內(nèi)部での派閥爭いなどで、革命は失敗に終わる。キリスト教的理想を掲げ、地上の天國を作り出そうとした洪秀全であったが、現(xiàn)実において社會を組織?運営する上で伝統(tǒng)的?土著的な考え方?価値観から逃れられるはずもなく、その理想と現(xiàn)実は極めて乖離したものとならざるを得なかったのだ。

1860年2月?5月、第二次江南大営攻略では、干王「洪仁[王干]」?忠王「李秀成」?輔王「楊輔清」?侍王「李世賢」?英王「陳玉成」らが好く呼応して清軍を撃破。1860年6月、李秀成は蘇州を占領(lǐng)し「蘇福省」の省都とした?,F(xiàn)在の蘇州博物館東で拙政園西に「太平天國忠王府」(寫真3)を建てたが、その後太平天國は內(nèi)紛の様相を帯びてきた。特に李秀成?李世賢は洪一族に対し李氏閥を形成し、獨斷専行が徐々に増えていくことになる。

1860年8月18日における第一次上海攻略はその好例であろう。江南地方の制圧を進(jìn)めていたのは李秀成軍であったが、上海だけは西洋列強(qiáng)の租界(キリスト教)があるため攻撃が控えられていた。この時洪仁[王干]は西歐と交渉し、少なくとも清朝に荷擔(dān)しないよう畫策していた。しかし交渉に業(yè)を煮やした李秀成は、一転攻撃を仕掛け、逆に手痛い反撃を受け、自らも負(fù)傷した。これなどは洪仁[王干]?李秀成両者の西歐體験の有無が大きく影響した結(jié)果生じた齟齬(そご)と言える。この時、歴史が変わった。この二人の仲の悪さが、太平天國の運命を変えたのである。その後、太平天國は沒落方向に流れていく。この1860年8月18日が、中國の近代化をさらに50年遅らせた月日となった。

北京條約は、1860年(咸豊10年)に清朝とイギリス(10月24日)?フランス(10月25日)連合軍、および清朝とロシア帝國(11月14日)が締結(jié)した不平等條約。この條約で、英?仏?露は上海租界地を攻撃した太平天國を清朝とともに討伐する立場と変貌した。要は、この條約で太平天國は「賊軍」となったのである。この條約の後、清朝は洋務(wù)運動(西洋の近代技術(shù)を積極的に取り入れる)に著手したが、魂のない西洋化はその後の日清戦爭などで化けの皮が剝がされる結(jié)果となった。辛亥革命が遅れた理由は、1860年8月18日の第一次上海攻撃にあったのだ。

■筆者プロフィール:工藤 和直

1953年、宮崎市生まれ。韓國で電子技術(shù)を教えていたことが認(rèn)められ、2001年2月、韓國電子産業(yè)振興會より電子産業(yè)大賞受賞。2004年1月より中國江蘇省蘇州市で蘇州住電裝有限公司董事総経理として新會社を立上げ、2008年からは住友電裝株式會社執(zhí)行役員兼務(wù)。蘇州日商倶楽部(商工會)會長として、日中友好にも貢獻(xiàn)してきた。

■筆者プロフィール:工藤 和直

1953年、宮崎市生まれ。1977年九州大學(xué)大學(xué)院工學(xué)研究科修了。韓國で電子技術(shù)を教えていたことが認(rèn)められ、2001年2月、韓國電子産業(yè)振興會より電子産業(yè)大賞受賞。2004年1月より中國江蘇省蘇州市で蘇州住電裝有限公司董事総経理として新會社を立上げ、2008年からは住友電裝株式會社執(zhí)行役員兼務(wù)。2013年には蘇州日商倶楽部(商工會)會長として、蘇州市ある日系2500社、約1萬人の邦人と共に、日中友好にも貢獻(xiàn)してきた。2015年からは最高顧問として中國関係會社を指導(dǎo)する傍ら、現(xiàn)在も中國関係會社で駐在13年半の経験を生かして活躍中。中國や日本で「チャイナリスク下でのビジネスの進(jìn)め方」など多方面で講演會を行い、「蘇州たより」「蘇州たより2」などの著作がある。

この記事のコメントを見る

ピックアップ



   

we`re

RecordChina

お問い合わせ

Record China?記事へのご意見?お問い合わせはこちら

お問い合わせ

業(yè)務(wù)提攜

Record Chinaへの業(yè)務(wù)提攜に関するお問い合わせはこちら

業(yè)務(wù)提攜