<羅針盤>父?立石一真の思い出(上)=2人の母と長兄にも感謝―立石信雄オムロン元會長

立石信雄    2017年7月9日(日) 9時40分

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オムロンの創(chuàng)業(yè)者である父?立石一真に感化を受けその創(chuàng)業(yè)理念を後世に殘すためにということで、創(chuàng)業(yè)者から薫陶を受けた社員の思い出を綴った小冊子をまとめようという動きがある。そこに取り上げられた多くの社員の思い出を読んでいると、父の人物像が読み取れて面白い。

最近、日本企業(yè)の管理體制をめぐる課題が浮き彫りになる事例が散見される。今ほど企業(yè)統(tǒng)治とサスティナリビリティ(持続可能性)の重要性が問われている時はないと思われる。

M&A(合併?買収)で傘下に収めた海外子會社で減損などの損失計上を迫られたり、現(xiàn)地法人の不適切會計が発覚したりして決算を訂正したりする例も相次いでいる。人口減少などに伴う消費減退で國內(nèi)市場が頭打ちになる中、日本企業(yè)は成長のチャンスを外に求めてグローバル化を展開。大半の企業(yè)は著実に地歩を固めているが、一部企業(yè)で海外子會社の管理體制構(gòu)築が経営課題となっている。

オムロンの創(chuàng)業(yè)者である父?立石一真に感化を受けその創(chuàng)業(yè)理念を後世に殘すためにということで、創(chuàng)業(yè)者から薫陶を受けた社員の思い出を綴った小冊子をまとめようという動きがある。そこに取り上げられた多くの社員の思い出を読んでいると、父の人物像が読み取れて面白い。先を読む力(先見性)、言行一致、人使いのうまさ、やさしさ、思いやり、厳しさ、積極性、執(zhí)念、社會に対する愛、などなどを持ち合わせていたと思う。

特に?事業(yè)に関しての先を見る力では、部品からスタートし、工場のオートメーション(自動製造裝置)、社會システムのオートメーション(自動券売機、自助動改札、銀行の窓口業(yè)務(wù)のCD、ATM、両替機、CAT)、社會インフラのオートメーション(交通信號、交通管制)。創(chuàng)業(yè)者が?!┭预盲皮い俊ⅰ溉碎gは元気で長生きするのが夢である」を?qū)g現(xiàn)するための健康醫(yī)療機器への參入等、すべて日常利用されている社會を?qū)g現(xiàn)したことの功績は大きいと思う。

           

昭和8年に大阪?塚本で創(chuàng)業(yè)した會社は、大阪大空襲で全滅し、再挑戦の地を京都、右京區(qū)花園に求めて、當時の有名な嵐寛壽郎のスタジオを仮工場として借り、昭和23年に立石電機を再建させたが、その當時、労働爭議に巻き込まれて、大変に苦しんでいたことを今でも覚えている。

しかも、その厳しい狀況の中、昭和25年に母が亡くなり、我々7人の子供はどうなるのかと心配したが、父の忍耐力と愛情で心配することなく、それぞれの道を歩ませてくれたことに感謝している。

これを可能にしてくれたものは、偶然とは言え、結(jié)婚して嫁いだ長女(私の姉)の義父が亡くなられたあと、10年後に我々兄弟妹7人が、是非父のお茶飲み友達に來てくれないかと頼みに行ったところ、恥じらいながらもその頼みを義母は受けてくれたこと。その後、義母が育ての母として我々を育ててくれたからである。そのことは?家族の安心感を與えてくれたのである。

我々兄弟姉妹には。それぞれに父の思い出がある。私にも言い盡くせないほど多くの思い出がある。その中で特に語っておきたい3つを語りたい。

一つ目は、兄弟の中でも私は、一番やんちゃだった。中學生の頃、近所の友達の中にひどいいじめっ子がいた。彼が弱い女の子をたびたびいじめるのを見て。私は正義感に駆られて逃げ帰った彼の家に、今では存在しないが、“肥溜め”を天秤棒で擔いで彼の家に押しかけ、「逃げるな、出てこい!」と叫んでまき散らした。さすがに彼の父親が來て、父に「けしからん、謝れ!」と言ってきたが、父は「子供のけんかは子供の世界、親が口出しするものではない」と彼をたしなめた。彼の父親が帰った後、父は、ひとこと「二度とああいうことはしないこと」と言ってくれて、私は救われた。

二つ目の思い出は、末弟が生まれてまもなく、毋が亡くなり、夜中のおしめの交換を長女と一緒にしていた父の姿が今でも目に浮かんでくる。すでに長女は婚約が決まり、式の日取りも決まっていただけに、父に結(jié)婚式を延期したいと申し出たが、「絶対だめ、予定通り」と諭してしていた父親の姿である。

三つ目の思い出は、私が大學時代、京都右京區(qū)の少年補導(dǎo)委員會の委員長として、在京の大學生と一緒に母子寮の子供の學習指導(dǎo)、老人ホームの慰間、林間學校の開催。嵐山の水泳パトロール等々、ボランティア活動を小學校の校庭を借りて、幻燈會を開き、資金を集め。企業(yè)からもお願いして行っていた。この企畫會議を、私の家の庭に蚊帳(かや)を張って、その中で行っていた姿を父が見て、子供たちがやっているのだから大人も何かやるべきだ、ということで、會社の中に社會奉仕委員會を作って、社會貢獻活動を始めてくれ?その流れで昭和34年の社憲『われわれの働きでわれわれの生活を向上しよりよい社會をつくりましょう』の制定につながっているのである。

このように、若い者の活動に共感して、社會奉仕委員會を作ってくれたのは、創(chuàng)業(yè)者の感性あってのことであろうと思う。自ら14歳の時に父を亡くし、母を支えて早朝の新聞配達やそば粉売りをした時に、やさしく「大変ね」と何度も聲をかけてくれた老婆の話をたびたびしてくれた。こういう感性も、父は心にやさしさを持ち続けていたからではないかと思う。<つづく>

<【<羅針盤>=父?立石一真の思い出(下)=最もよく人を幸福(しあわせ)にする人が最もよく幸福となる―立石信雄オムロン元會長】は7月16日配信予定です>

■筆者プロフィール:立石信雄

1959年立石電機販売に入社。1965年立石電機(現(xiàn)オムロン株式會社)取締役。1995年代表取締役會長。2003年相談役。 日本経団連?國際労働委員長、海外事業(yè)活動関連協(xié)議會(CBCC)會長など歴任?!弗蕙庭弗幞螗趣?a target='_blank' href='http://www.wenhuatang.com/search.php?filter=ノーベル賞'>ノーベル賞」といわれるSAM(Society for Advancement of Management)『The Taylor Key Award』受賞。同志社大名譽文化博士。中國?北京大、南開大、上海交通大、復(fù)旦大などの顧問教授や顧問を務(wù)めている。SAM(日本経営近代化協(xié)會)名譽會長。エッセイスト。

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