<コラム>司馬遼太郎に導(dǎo)かれ、中國?蘇州の城門跡を探索

工藤 和直    2017年7月30日(日) 18時50分

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1987年に初めて蘇州に來てから早30年、蘇州高新區(qū)に12年間住んだ。その時に蘇州の事を少しでも知ろうと再読したのが、司馬遼太郎「街道を行く:中國江南のみち」である。寫真は筆者提供。

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1987年に初めて蘇州に來てから早30年、蘇州高新區(qū)に12年間住んだ。その時に蘇州の事を少しでも知ろうと再読したのが、司馬遼太郎の「街道をゆく:中國江南のみち」である。當(dāng)時、小生の蘇州に関する知識はこの本から得たものだけであった。司馬遼太郎が1981年2回目の訪問時の記録でもある。司馬先生は春秋時代の東門はホウ門(ホウ=草かんむりに封、feng-Men)としているが、それは間違いで、ホウ門はその後戦國時代に出來たと分かった時、少しだけ優(yōu)越感を感じた。

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今まで、司馬先生が思った「蘇州舊城の外郭を1周したい」を12年の駐在生活中に何度も繰り返し、自分なりにこの南北4.5キロ×東西3.5キロの城壁と城門について知見を得るに至った。中國の城は日本と異なり、町全體を城壁に囲んだ空間を城と呼んだ。

「図1」は、南宋時代の蘇州の街並みを記録した「平江図」を元にして清朝時代の石碑を書き寫したもので、不思議とGoogleからダウンロードした地図とほぼ同じである。つまり、時間は2500年間止まっているのである。この城內(nèi)を守るように城壁が周囲16キロ繋がり、その出入り口として城門が築かれた。城壁は2丈4尺(7.2メートル)の塀にさらに6尺(1.8メートル)の馬柵があり、合計9メートルの高さがあったと記録されている。

蘇州は長い歴史と文化を持つ都市である。春秋時代呉王闔閭(前514年?前496年)が周囲1.5キロしかなかった小さな都を周囲20キロもある「闔閭大城」に拡張してから、既に2500年経っている。闔閭は宰相の伍子胥に命じて築城の大事業(yè)に著手、そのコンセプトは風(fēng)水を十分に考慮した「相土嘗水、象天法地」である。土を観察し水をなめるように試探、天を真似るように地を手本とし、「土?水?天?地」の4つを支配する。風(fēng)水から八卦(八風(fēng))を考え、出入りの水陸門は八つとした。門からは八つの風(fēng)が入るのだ。

現(xiàn)在、城門の名前が殘っているのは、北から時計回りに平?斉?婁?相?ホウ(ホウ=草かんむりに封)?南?盤?胥?金?ショウ(ショウ=門構(gòu)えに昌)の10門である。呉王夫差(闔閭の子)の時代には、平?斉?婁?相?蛇?盤?胥?ショウの8門があった。その後漢の時代以降に赤門が増えたが短期であった。唐の時代は8門、北宋時代は5門(斉?婁?盤?胥?ショウ)、1080年範(fàn)仲俺がホウ門を開き6門、1229年の平江図は胥門を閉じ5門、太平天國時代は斉?婁?盤?胥?ショウの5門になった。東門が少ないのは濕地帯が多く、不便なのが理由であろう。その後、民國時代に新ショウ?金?南?新胥が新設(shè)され、新ショウ門は金門完成後破壊。新胥門は胥門の北50メートルの位置(萬年橋の延長)にあった。1949年にはこの新胥門を入れて、11門あったと言われるが、その後新胥門は無くなり、現(xiàn)在の10門になっている。「図1」に14門の位置を示すが、時代時代にあわせ、増えたり?減ったりした歴史がある(黃色は現(xiàn)在名が殘る10門)。

城門として現(xiàn)存するのは、盤?胥?金だけである(寫真1?2?3)。ショウ門は最近再現(xiàn)されたものである。蘇州は過去10度に渡る大亂で消滅しようとした経歴を持つ。一つは元の時代金兵の侵攻で3日3晩燃え続き、城郭は多く破壊された。最後が清代の太平天國の亂後である。その後、蘇州は経済文化を含め大きく時代から取り殘された。幸い、現(xiàn)存する盤?胥?金門周辺には昔の城石の積み方(品字積み)が見られる場所があるが、最近の蘇州都市開発計畫の波で、多くが新しく改造され、その面影が見られなくなったのが非常に殘念である。歴史をそのまま殘すという考えの前に、きれいな観光地にしようとする都市計畫に反対したい。古いものを現(xiàn)狀保存するのが責(zé)務(wù)でないかと考える。

小生が初めて蘇州に來て訪問したのがホウ?胥の東西の門であった。ホウ門は最初に宿泊した蘇州飯店から歩いて行ける距離で、司馬先生の本にあったからだ。門はなかったが、ここが姑蘇の東門かと思い、そして西門にあたる胥門の姿を見た時に、2500年前の狀況が目に浮かぶ感じがした。ただ春秋時代は、現(xiàn)在の石を積上げる方式でなく、硬い土に突き固める土塁(版築方式)であった。

春秋時代にあった蛇門、この位置は定かでない。記録によると南堀に面したとか、ホウ門南部とか幾つかの説がある?,F(xiàn)在城郭の南東部に古そうな高樓(赤門)ができたが、昔は無かった。ここは蛇門にあらず、平江府中央から南下し、烏鵲橋を通ってちょうど蘇州城の真南にあたる所が蛇門になると斷定できる。かつて杭州まで行く船著き場があった辺りである。この門はちょうど南大門にあたる。寺院を含め、中國では南北を重要視する限り、必ず南大門が存在した。ただ、南門としても使用頻度は盤門が勝り、宋時代には閉じられた。

■筆者プロフィール:工藤和直

1953年、宮崎市生まれ。韓國で電子技術(shù)を教えていたことが認められ、2001年2月、韓國電子産業(yè)振興會より電子産業(yè)大賞受賞。2004年1月より中國江蘇省蘇州市で蘇州住電裝有限公司董事総経理として新會社を立上げ、2008年からは住友電裝株式會社執(zhí)行役員兼務(wù)。蘇州日商倶楽部(商工會)會長として、日中友好にも貢獻してきた。

■筆者プロフィール:工藤 和直

1953年、宮崎市生まれ。1977年九州大學(xué)大學(xué)院工學(xué)研究科修了。韓國で電子技術(shù)を教えていたことが認められ、2001年2月、韓國電子産業(yè)振興會より電子産業(yè)大賞受賞。2004年1月より中國江蘇省蘇州市で蘇州住電裝有限公司董事総経理として新會社を立上げ、2008年からは住友電裝株式會社執(zhí)行役員兼務(wù)。2013年には蘇州日商倶楽部(商工會)會長として、蘇州市ある日系2500社、約1萬人の邦人と共に、日中友好にも貢獻してきた。2015年からは最高顧問として中國関係會社を指導(dǎo)する傍ら、現(xiàn)在も中國関係會社で駐在13年半の経験を生かして活躍中。中國や日本で「チャイナリスク下でのビジネスの進め方」など多方面で講演會を行い、「蘇州たより」「蘇州たより2」などの著作がある。

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