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中國(guó)に初めて來(lái)たのは1987年の冬であった。多くの中國(guó)の方々と朋友になり「中國(guó)人」はそれなりに理解したが、「中國(guó)」はだんだん分からなる。寫真は筆者提供。
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中國(guó)に初めて來(lái)たのは1987年の冬であった。上海虹橋空港で初めて中國(guó)の土を踏み、南京路の國(guó)際飯店まで車で2時(shí)間を要した。冬のせいもあるが男女とも同じ紺か黒の人民服、道路に異常なくらい自転車であふれ交通妨害になった。通訳でお願(yuàn)いした女性はホテルの入り口までしか入れず、その入り口には紅衛(wèi)兵のような男が立っていた。エレベーターの各階にも紅衛(wèi)兵が立って、なぜか不釣合いの椅子だけが各階エレベーター出入口にあった。
【その他の寫真】
お金は兌換(だかん)紙幣で、外國(guó)人は一般の人民元は使えない。39円/元(現(xiàn)在は16円/元)と管理された。上海から蘇州までまだ高速もなく、下道を車で5時(shí)間近くかかった。帰りは汽車で上海に戻ったが、ウルムチからの夜行寢臺(tái)列車、臭いというか汚いと言うか、スーツにネクタイはまったく合わない場(chǎng)所であった(現(xiàn)在の高速鉄道は快適です)。
蘇州日本人街は高新區(qū)と言う蘇州市西部にある(寫真1)。大運(yùn)河を越えて新區(qū)へ渡る獅山橋はまだなく、寒山寺付近から渡し船で対岸に渡り、政府のマイクロバスで運(yùn)河沿いを南下、蘇州新區(qū)開発區(qū)の將來(lái)について5年後には大工業(yè)団地となると拝聴した。半分うそだろうと思ったが、20年後にはそれ以上になったのは本當(dāng)に脅威に値する。その時(shí)の新區(qū)招商局の方々は今どうしているだろうか?
弊社が蘇州に進(jìn)出したのは2002年であるが、その數(shù)年前からは現(xiàn)地調(diào)査を?qū)g施、獅山橋近くにあった橫河電機(jī)さんへ話を聞くためたびたび訪問した。會(huì)社內(nèi)にあるソメイヨシノは、蘇州地域で一番きれいな名所であり、毎年春になるのを楽しみにしていたが、再開発地域となり桜の苗木は伐採(cǎi)されたのが、非常に殘念である(寫真2は最後の桜満開)。
造成用の土地購(gòu)入などに入った2003年春SARS(重癥急性呼吸器癥候群)で多くの方が亡くなったが、家族に馬鹿と言われながらもここ蘇州に片道切符で來(lái)た(その當(dāng)時(shí)日本に帰國(guó)しても1週間は発病可否を見るためホテルに缶詰め)。契約タクシーで上海から江蘇省の入口になる花橋インターで數(shù)時(shí)間検査待ちをして、ようやく蘇州市內(nèi)に到著した。政府との交渉や銀行回りなど晝間は時(shí)間が潰れたが、夜は外出禁止令が出ており、駐在者は自宅に戻り、出張者への禁止令はないのを口実にして夜な夜な一人日本人街に繰り出した。
當(dāng)時(shí)の新區(qū)商業(yè)街(淮海路)はまだ道幅が半分のドブ板通りであった。SARS騒ぎで人影も少なくどの店も客はほとんどない狀況、いつも行くのは日本料理屋「伊藤園」の2階にあった「蝶」というスナックであった。夕方6時(shí)過ぎに入り、下の日本料理屋から殘り物のご飯を頂きながら小姐數(shù)名といっしょに食事、バックミュージック代わりに流れるカラオケに知る歌があれば歌い、なければバカ話と言う次第であった。夜も10時(shí)前になり帰ろうとすると「次のお客さんが來(lái)るまで」と止められるがその後真夜中12時(shí)になってもだれも來(lái)ず、結(jié)局小生一人のみが今日のお客という有様であった。大変なSARS騒動(dòng)であったが、悪いだけでなく意外と楽しい蘇州の夜でもあった。その後、2004年1月から正式に蘇州駐在となった。
多くの中國(guó)の方々と朋友になり「中國(guó)人」はそれなりに理解したが、「中國(guó)」はだんだん分からなる。よく「中國(guó)」と?中國(guó)人?、「日本」と「日本人」と言うが、まったく同じで、私が知る中國(guó)人も日本人と同じで、良い人も悪い人も居る。弊社の従業(yè)員は地方から來(lái)ている6000名の農(nóng)民工であったが、家族からは日本人は鬼だから「気をつけろ」と言われたそうだ。教科書にも「鬼」と書いてある。でも、「入社して3年間、鬼に會(huì)ったことはない」と言うようになった。
人はみな同じであり、會(huì)って話せば分かる。しかし、「中國(guó)」?日本?はどうであろう、14年も居るがいっこうに分からない點(diǎn)が多いし、ますます分からなくなった。中國(guó)側(cè)の胡耀邦首相、日本側(cè)は中曽根さんが首相になった80年代だったか、非常に良い時(shí)代があった。しかし、その後長(zhǎng)期政権が見え出して靖國(guó)訪問した結(jié)果、日中間は悪化。その後小泉さんの時(shí)も、また靖國(guó)で悪化した。そして今の安倍首相の時(shí)も同じである。
天皇陛下が上海南京路に來(lái)られたのは1992年だった。今上海に來(lái)られれば、一番びっくりされるのは両陛下であろうと思う。天安門事件で世界的に孤立した中國(guó)を救ったのは陛下の覚悟の訪中であった。中國(guó)の近代化は2000年になって急激に進(jìn)展した。80年代、日中関係が良かったのはどうしてか?國(guó)力が拮抗になった今、一番仲が悪い関係となった。昔は、中國(guó)が譲歩(がまん)したのかもしれない、だから天皇陛下も訪問できた。今はどうであろう、絶対ありえないのが天皇訪問であろう?!袱イい^去を知る、譲歩する、がまんする」しかないと思う。
不幸な事に2012年9月15日の午後に商業(yè)街を騒然とさせた抗日暴動(dòng)が発生した。思い出の伊藤園も暴徒が亂入破壊された(寫真3)。蘇州は當(dāng)時(shí)2500社以上の日系企業(yè)と1萬(wàn)人の日本人が居る都市で、非常に親日的な地域であるといわれたが、狀況が一転した。日本本社の結(jié)論は、これ以上中國(guó)拡大は停止、チャイナプラスワン構(gòu)想でアセアン(特にベトナム)への投資が加速した。リーマンショックや新型インフルエンザをはじめ多くの事件があったが、中國(guó)に初めて來(lái)てすでに30年、されどまだ30年である。
■筆者プロフィール:工藤和直
1953年、宮崎市生まれ。韓國(guó)で電子技術(shù)を教えていたことが認(rèn)められ、2001年2月、韓國(guó)電子産業(yè)振興會(huì)より電子産業(yè)大賞受賞。2004年1月より中國(guó)江蘇省蘇州市で蘇州住電裝有限公司董事総経理として新會(huì)社を立上げ、2008年からは住友電裝株式會(huì)社執(zhí)行役員兼務(wù)。蘇州日商倶楽部(商工會(huì))會(huì)長(zhǎng)として、日中友好にも貢獻(xiàn)してきた。
■筆者プロフィール:工藤 和直
1953年、宮崎市生まれ。1977年九州大學(xué)大學(xué)院工學(xué)研究科修了。韓國(guó)で電子技術(shù)を教えていたことが認(rèn)められ、2001年2月、韓國(guó)電子産業(yè)振興會(huì)より電子産業(yè)大賞受賞。2004年1月より中國(guó)江蘇省蘇州市で蘇州住電裝有限公司董事総経理として新會(huì)社を立上げ、2008年からは住友電裝株式會(huì)社執(zhí)行役員兼務(wù)。2013年には蘇州日商倶楽部(商工會(huì))會(huì)長(zhǎng)として、蘇州市ある日系2500社、約1萬(wàn)人の邦人と共に、日中友好にも貢獻(xiàn)してきた。2015年からは最高顧問として中國(guó)関係會(huì)社を指導(dǎo)する傍ら、現(xiàn)在も中國(guó)関係會(huì)社で駐在13年半の経験を生かして活躍中。中國(guó)や日本で「チャイナリスク下でのビジネスの進(jìn)め方」など多方面で講演會(huì)を行い、「蘇州たより」「蘇州たより2」などの著作がある。
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