中國の日本文學(xué)ファンが注目すべき作家―中國コラム

人民網(wǎng)日本語版    2017年8月27日(日) 7時30分

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「平野啓一郎」という名前は、中國の日本文學(xué)ファンには、あまり聞きなれない名前であろう。だが、1999年、この名は日本の文壇を突然騒がせ、社會的な話題になった。

「平野啓一郎」という名前は、中國の日本文學(xué)ファンには、あまり聞きなれない名前であろう。だが、1999年、この名は日本の文壇を突然騒がせ、社會的な話題になった。當(dāng)時若干23歳で、京都大學(xué)の學(xué)生だった平野啓一郎氏は処女作「日蝕」で、日本純文學(xué)の最高峰である第120回芥川賞を受賞。當(dāng)時の受賞者最年少記録を更新し、日本文學(xué)評論界では「三島由紀(jì)夫の再來」とささやかれた。同年、「日蝕」の売上は56萬部を記録し、文學(xué)界の新人ジャンルでは「超ベストセラー」となった。引き続き、平野氏は第2作となる「一月物語」を発表した。日本古典小説風(fēng)の同作品は、フランス語、スウェーデン語、アラビア語、韓國語などの言語に次々と翻訳された。その後彼は、「葬送」、「決壊」、「ドーン」などの一連の作品を発表。フランス蕓術(shù)文化勲章や蕓術(shù)選奨文部科學(xué)大臣新人賞を受賞し、1970年代生まれの日本人作家の中でも名実ともに備わった中堅作家となった。平野氏が昨年発表した「マチネの終わりに」も、16回重版を繰り返すベストセラーとなり、渡辺純一文學(xué)賞を受賞した。(文:邵劼。光明網(wǎng)掲載)

若い頃に名を成したこの天才作家をめぐり、彼が有名になった経緯や少年時代のエピソードは、ずっと世間の注目を集めてきた。だが、日本メディアの取材に対する彼の答えは、最初の頃は意外なものだった?!感·丹ろ暏?、読書が大嫌いだった。それよりも運動場で野球サッカーに興じる少年だった」と平野氏は話した。

彼の答えに、我々はつい好奇心を抱いてしまう。このような少年時代を過ごした彼が、一體なぜ最終的に作家の道を選んだのだろう?平野への取材記録から、転機(jī)が訪れたのは、彼が中二の時に電車の中で三島由紀(jì)夫の小説「金閣寺」を読んだ時だったことが判明した。この小説を読了したことをきっかけに、平野の読書に対する興味が高まっていく。高校時代は、トーマス?マン、ボードレール、ドフトエフスキー、澁澤龍彥、大江健三郎らの作品を読みふけった。京都大學(xué)入學(xué)後は、西洋哲學(xué)や宗教學(xué)に興味を抱くようになり、ミルチャ?エリアーデ、マルティン?ブーバー、トマス?アクィナスらの著作を、大學(xué)の図書館から借りて読んだという。

おそらく、この若さにして膨大な読書量と理論的な深い思考を通じ、彼は大學(xué)在學(xué)中に処女作「日蝕」を書きあげた。當(dāng)時、執(zhí)筆素材を準(zhǔn)備するために、十?dāng)?shù)巻で構(gòu)成されている平凡社「中世思想原典集成」を1年がかりで読破したという。小説「日蝕」は、中世末期にパリでトマス神學(xué)を?qū)Wぶ學(xué)生を主人公として、當(dāng)時の神権と俗世間との対立と融合に揺れるフランスを描いた。第二作「一月物語」は、純東洋風(fēng)の形式で、古典怪談を彷彿とさせるタッチで近代の幻想的な世界が表現(xiàn)されている。同小説は、「黃梁一夢」や「莊周夢蝶」など中國の古典物語を伏線とし、主人公のモデルは、自ら命を絶った明治時代の詩人?北村透谷(1868-1894)で、夢とうつつが交錯する手法を用い、明治時代の山奧の深谷を舞臺とした妖艶な純愛ストーリーが描き出されている。

この日本の新世代作家について、浙江文蕓社外國文學(xué)部の擔(dān)當(dāng)チーフ?柳明曄氏は、中國社會科學(xué)院外國語所の許金龍氏と日本文學(xué)に関する商談をしていた際に、初めて知ったという。許氏はその時、日本で非常に人気があるが、中國國內(nèi)ではまだ名前が知られていない2人の作家を取り上げ、とても殘念なことだと指摘した。そのうち1人は、芥川賞受賞作家で選考委員も務(wù)める小川洋子氏、もう一人は平野啓一郎氏だった。平野氏について、許氏は、「日本の若手作家トップ3に入る実力派であり、十分期待できる」と高く評価した。このような経緯から、浙江文蕓社では、この2人の日本人作家が大いに注目されるようになり、日本で版権を所有している株式會社コルクと翻訳出版について繰り返し話し合いを重ね、版権料に関する?yún)f(xié)議を通じて、最終的にこれら2人の作家の一連の作品に関する版権を獲得した?!概既护悉ⅳ毪猡韦馈工趣いχVの通り、今年3月、擔(dān)當(dāng)の編集者は平野啓一郎氏の「日蝕」と「一月物語」の翻訳原稿を受け取り、翻訳作業(yè)の準(zhǔn)備を進(jìn)めようとしていたときに、平野氏はちょうど北京大學(xué)から招かれ、中國でテーマ講演をする機(jī)會を得た。このことを聞いた柳氏と編集者は、この神秘的な作家に會うため北京に赴いた。

初めて會った平野氏は、ロック歌手のような風(fēng)貌だった。あまり多くを語ることはないが、親しみやすい雰囲気が滲み出ており、日本の有名作家という雰囲気は全く感じられなかった。話の內(nèi)容は、作品の創(chuàng)作から中國のイメージへと一気に話題が飛び、その場は大いに盛り上がった。彼は、「日蝕」、「一月物語」、「顔のない裸體たち」、「高瀬川」など自分の一連の小説が、一日も早く中國の読者に読んでもらえる日が來るよう願っていると話した。「一月物語」の中で、中國唐代の詩人?李賀の詩を引用した理由について質(zhì)問された彼は、「李白や李賀などの詩が大好きで、大學(xué)在學(xué)中にも古典詩をたくさん読んだ。また、中國の古典文化は日本に非常に深い影響を及ぼしてきた。さらに、明治時代の日本の文學(xué)者が漢詩に長けていた例も多い」と説明した。會談の最後に、柳副編集長は、8月の上海ブックフェアに平野氏を招待したいと申し出た。平野氏は全く迷いなく承諾した。

30回以上に及ぶメールのやり取りを経て、平野氏の上海ブックフェア出席の日程がようやく確定した。8月16日、「日蝕」と「一月物語」の中國語版小説が浙江文蕓出版社から華々しく出版され、上海ブックフェアの會場に登場した。ブックフェア開催中、平野氏は、著名學(xué)者や毛尖、徐則臣、孫孟晉、査屏球ら中國人作家とともに、一連の文學(xué)対談イベントに出席し、テーマ講演を行った。多くの読者が、この全く新しいタイプの日本人作家に身近で接觸し、彼の2冊の作品を読んだことで、平野氏の作品が中國國內(nèi)の日本文學(xué)愛好家にとって新たな選択肢の一つとなることだろう。また、この新たな選択肢は、東野圭吾や村上春樹らに対する盲目的な支持から抜け出し、より成熟した全面的な見地から日本の現(xiàn)代文學(xué)を見直し、現(xiàn)代日本の文化生態(tài)を理解する上で有益に働くに違いない。(提供/人民網(wǎng)日本語版?編集KM)

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