人民網(wǎng)日本語版 2017年8月31日(木) 14時(shí)10分
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俳優(yōu)?黃磊(ホアン?レイ)がマスター役を演じた中國版「深夜食堂」にブーイングが殺到しなければ、日本のドラマ版と映畫版の「深夜食堂」は、元々目立たないほど落ち著いた雰囲気の作品なので、中國での大衆(zhòng)認(rèn)知度も高くなかっただろう。
俳優(yōu)?黃磊(ホアン?レイ)がマスター役を演じた中國版「深夜食堂」にブーイングが殺到しなければ、日本のドラマ版と映畫版の「深夜食堂」は、元々目立たないほど落ち著いた雰囲気の作品なので、中國での大衆(zhòng)認(rèn)知度も高くなかっただろう。中國版に対する視聴者のブーイングを調(diào)査してみると興味深いものが多い。SNS上での多くの人の「夜食」をめぐるやり取りを見ると、せつないエピソードが多く、そこには義理人情や悲しい人生の一幕が詰まっている。中國の人気料理ドキュメンタリー「舌で味わう中國」の総監(jiān)督?陳暁卿氏は、トーク番組で、「中國人の夜食は、肉の串焼きや火鍋、ザリガニ料理など、味の濃いものばかり。食べ物の好みと社會(huì)次元での人々の集団感覚には、通じるものがある」と話した。つまり、中國人の味覚と感情志向は「コッテリ」ということになる。(文:杜慶春《北京電影學(xué)院教授》。文匯網(wǎng)掲載)
原作の「深夜食堂」は、日本の一般的な食習(xí)慣をベースにしており、あまりにも「あっさり」している。ネット上で、深夜食堂のドラマと劇場(chǎng)版2作は好評(píng)を博している。しかし、映畫「続?深夜食堂」が7月に中國で公開されたものの、興行収入は全く伸びず公開初日は400萬元(約6600萬円)がやっとだった。一方、同日に公開された「悟空伝(Wukong) 」は4億元(約66億円)を突破した。「続?深夜食堂」は、その後も低調(diào)なまま上映され、現(xiàn)時(shí)點(diǎn)でも興行収入は1300萬元(約2億1450億円)にとどまり、閑古鳥が鳴いている狀態(tài)だ。ネット上で熱い議論がなされていたといっても、ネタ作りのためや議論を楽しんでいただけのものだったのだ。ネットユーザーは気分屋で、この「話題作」は、実際に上映されると、冷遇されるという現(xiàn)実に直面してしまった。
だからと言って、「続?深夜食堂」が評(píng)判倒れの作品というわけでは決してない。ほとんど人のいない映畫館でこの作品を見た後、筆者は、その余韻がなかなか冷めなかった。同作品は、久しぶりに見た懐かしいにおいがする日本映畫で、この種の日本映畫を映畫館で見ることができる機(jī)會(huì)は少ない。この映畫を通して、筆者は、人のユーモア、細(xì)やかさ、ぬくもりを久しぶりに見ることができた。
深夜に営業(yè)する食堂の登場(chǎng)は、人々のライフスタイルや生活リズムが変化している結(jié)果だ。眠らない大都會(huì)に、「夜」はなく、深夜でも多くの人が活動(dòng)しているというのが常態(tài)化しているというのは、「現(xiàn)代」の産物だ。しかし、夜も眠らずに活動(dòng)していても、心ではむなしさを感じるというのは、昔も今も変わらず、「現(xiàn)代」の垣根を超え、今も多くの人の心に焼き付いている。そのため、「深夜食堂」のような場(chǎng)所では、「現(xiàn)代」と「昔」が織り交ざっており、そこには大都會(huì)の日常が集まっている。また、現(xiàn)代の大都會(huì)に生きる人の不満やストレスが引き出され、そこでたまたま出會(huì)った人々が物寂しい気持ちを互いに吐き出し合い、昔懐かしいムードを漂わせている。
映畫「続?深夜食堂」は、「現(xiàn)代」と「昔」のマッチングを強(qiáng)化している。それは、伝統(tǒng)的な街にある伝統(tǒng)的な食の美學(xué)で、「深夜食堂」はきらびやかな都會(huì)の東京の片隅にひっそりと存在している。この映畫の登場(chǎng)人物のほとんどは、現(xiàn)代、近代の都會(huì)の「主役」ではなく、大きな現(xiàn)代都市空間では脇にやられた「脇役」たちであるというのはおもしろい點(diǎn)だ。その中で、最も體裁がいい職業(yè)についている登場(chǎng)人物は警察官。それでも、東京の舊市街地の交番に勤務(wù)している警察官だ。繁栄した都市の「裏」にある食堂が舞臺(tái)で、そこに集まっているのは都會(huì)の「脇役」らというのは、「現(xiàn)代」を少し離れた場(chǎng)所から見つめているようだ。同作品では、「現(xiàn)代」と「伝統(tǒng)」が混じりあうこともなければ、相反することもなく、それらが退けあったり、拒絶し合ったりすることもない。そして、「現(xiàn)代」と「伝統(tǒng)」が靜かに調(diào)和し、一見対立しているかに見えるその2つがそれぞれ靜かに存在し、互いにじっくり見つめ合い、ちょうどよい距離を保っている。
同作品で、人を引き込むのは、この「小汚い世界」に潛んでいる「美しさ」だ。水清ければ魚住まずと言うように、多くの場(chǎng)合、多くの人の心を本當(dāng)の意味で打つ「美しさ」は、聖人の善行ではなく、いろんな間違いもする普通の人が無意識(shí)に示す美徳だ。モラルの面でパーフェクトが求められる社會(huì)で、多くの人は「完璧」からほど遠(yuǎn)く、「いい人」でもなく、批判されることが多い凡人、能力のない人だ。しかし、そのような不完全な人にも、一瞬光輝く美徳があるものだ。人間味というのは、多方面にわたるもので、どんな凡人であっても、一瞬光輝く美しさが必ずあるものだ。これは、実際の人生における、「善」と「美」の勝利を意味する。
無數(shù)の人がせわしく戦っている大都市で、簡(jiǎn)素で狹い食堂が、深夜の街をさまよう人を受け入れてくれる場(chǎng)所となっている。中國版ドラマ「深夜食堂」では、マスターは積極的な性格で、他の人が抱えている問題の「解決屋」を自ら買って出て、「ヒーロー」役を演じる。それに対して、「続?深夜食堂」のマスターは「スーパーヒーロー」ではなく、都市の片隅の「番人」。人生におけるいろんな苦労を見守ってくれており、小さな「善意」や「美しさ」を、「脇役」たちが一瞬見せてくれるのを待っている。実際には、日本版「深夜食堂」の本當(dāng)の意義と魅力はそこにあり、派手な景観はそこに全くなく、ただ靜かに普段の生活の中で、人々をあたたかい目で見守っている。そこには、命の隙間から出てくる一點(diǎn)の美しさであっても、伝え受け継ぐ価値があるという精神がある。(編集KN)
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