日本人に中國(guó)語(yǔ)を教えて気づいたこと―中國(guó)人女性

Record China    2017年9月25日(月) 10時(shí)20分

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22日、新華日?qǐng)?bào)は、日本留學(xué)中に日本人に中國(guó)語(yǔ)を教えていた中國(guó)人の手記を掲載した。

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2017年9月22日、新華日?qǐng)?bào)は、日本留學(xué)中に日本人に中國(guó)語(yǔ)を教えていた中國(guó)人の手記を掲載した。以下はその概要。

その他の寫真

私は以前、教師は楽で暇な仕事だと思っていた。しかし、日本に留學(xué)した時(shí)、中國(guó)語(yǔ)教師を掛け持ちしてやってみたところ、自分がどれだけ軽率で無(wú)知だったかを思い知らされた。

私の最初の生徒は「おじさん」だった。初めて會(huì)ったのは秋、東京の紅葉が色づいてきた頃だ。カフェで長(zhǎng)い時(shí)間待っていると、「すみません、先生。遅くなりました」と言いながら宮脇さんはやってきた。彼は最初から私を「先生」と呼んだ。私が娘くらいの年頃であることは、まったく気にしていないようだった。コンピューター関連企業(yè)で20年ほど勤めているという彼は、ある時(shí)、「學(xué)生時(shí)代に十分に勉強(qiáng)できなかった」と思い立ち、自分の興味があることを?qū)Wぶことにしたそうだ。

仕事が忙しかったが、宮脇さんは毎週必ずやってきた。宿題もやってこないことはなかった。ノートには時(shí)々、わからなかった問題が書き留められていた。學(xué)生の私よりも真面目だった。私は以前からよく聞いていた日本の「匠の精神」を思い出した。おじさんの自分に注がれた厳しい視線は國(guó)や社會(huì)にも向けられていて、私のような「部外者」にちゅうちょすることなくそれを語(yǔ)った。「殘業(yè)代のために家族との時(shí)間を捨てるなんて馬鹿げているよ」。おじさんは「今の日本社會(huì)は人の情が薄くなった??瘠盲郡瑜Δ藘Pくのを変えないといけない時(shí)だよ」と話した。良い會(huì)社員でありながら、良い父、良い夫でありたいと。

私が教えた生徒の中で、一番感動(dòng)したのは西村さんという女性だ。大阪から東京に移り住んで長(zhǎng)く、関西弁は出ないものの、関西人のオープンさと正直なところは変わっていなかった。彼女に出會(huì)ったのは私が東京に來(lái)て間もないころ。最初の授業(yè)から、彼女は「中國(guó)が好き」「三國(guó)志が好き」「中國(guó)人の性格が好き」「中國(guó)語(yǔ)の発音が好き」「中國(guó)料理の多彩な味が好き」と言っていた。彼女の真っすぐな目を見て、私はようやく自分の國(guó)の文化がこの國(guó)で受け入れられ、尊重されていると信じることができた。

授業(yè)の中で、生徒たちは中國(guó)語(yǔ)だけでなく、中國(guó)文化についても理解を深めていた。西村さんは以前、「中國(guó)人は親しい相手にはありがとうと言わない」と聞いて驚いていた?!袱袱悚ⅰⅳ嗓Δ工毪??」と聞く彼女に、「時(shí)々、こうするだけです」と言って彼女の肩を軽くたたくと、彼女は恥ずかしそうな顔をしながら「こういう感じ、好き!」と言っていた。彼女の気持ちが私にはわかった。日本では禮儀が多いことが逆に人と人の距離を遠(yuǎn)ざけてしまうことがあるので、中國(guó)人の「言葉を必要としない親密さ」がうらやましく感じたのだと思う。

彼女の言葉に、私は両親を思い出した。怒鳴り、しかってくれた愛情を、そして私の帰りをずっと待ち望んでいることを。その思いは、沈黙と溫かい眼差しの中に隠れていた。異國(guó)に身を置くなかで振り返ってみて、私に蓄積された中國(guó)人の性格をはっきりと感じた。中國(guó)式の“愛”も実は、人からうらやましがられるものだったと、その時(shí)初めて気づいたのだ。(翻訳?編集/北田

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