<コラム>韓國(guó)?ソウルで今なお使われる日本統(tǒng)治時(shí)代の建物

工藤 和直    2017年10月30日(月) 22時(shí)50分

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京城府は、朝鮮王朝の漢城府に引き継いで置かれた日本統(tǒng)治時(shí)代の行政區(qū)域、現(xiàn)在のソウル特別市に當(dāng)たる。寫(xiě)真は筆者提供。

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京城府(けいじょうふ)は、朝鮮王朝の漢城府(ハンソンブ)に引き継いで置かれた日本統(tǒng)治時(shí)代の行政區(qū)域、現(xiàn)在のソウル特別市に當(dāng)たる。1394年11月26日、朝鮮王朝の太祖?李成桂(イ?ソンゲ)は開(kāi)城(ケソン)から漢陽(yáng)(ハニャン)へ遷都、1395(太祖4)年6月6日に漢陽(yáng)府を改め漢城府とし、以來(lái)およそ500年にわたって首都となった。1910(明治43)年の日韓併合後、朝鮮総督府地方官官制に基づき「京城府」に改稱された。朝鮮半島においての「府」は日本の「市」に相當(dāng)する。よってしばしば誤って呼ばれるが、京城市という市は歴史上存在しない。また、「京城」は王城?皇城と同じ意味の漢語(yǔ)であって、朝鮮においては古くから漢城を指して使われた一般名詞の一つである。

その他の寫(xiě)真

1945(昭和20)年8月15日の日本敗戦(光復(fù))後もしばらくは「京城」の名稱が使われた。連合軍軍政期の1946(昭和21)年10月18日、京畿道(キョンギド)の管轄から離れて「ソウル自由市」が設(shè)定され、大韓民國(guó)が獨(dú)立した1948(昭和23)年には首都「ソウル特別市」が誕生、現(xiàn)在に至っている?!弗渐Ε搿工铣r固有語(yǔ)では「みやこ」を意味する。漢字表記(漢城?漢陽(yáng)?京城?京都など)の変遷に関わらず、朝鮮民族はこの地を「ソウル」と呼んできた。朝鮮王朝時(shí)代までは朝鮮語(yǔ)で「京都」などと書(shū)いてソウルと読んでいたが、現(xiàn)代の韓國(guó)?朝鮮語(yǔ)では漢字の訓(xùn)読が廃止されているためハングルのみで表記する。

京城の玄関は京城駅(寫(xiě)真1)であるが、明治のれんが造り駅舎は今も殘っている。駅前にはかつて路面電車(chē)が走っていた。南大門(mén)から北の総督府に向かう太平通り、三越百貨店から鐘路にかけての南大門(mén)通り、三越と郵便局の間の繁華街である本町通り(現(xiàn)忠武路)、今のロッテ百貨店から右折すると黃金通り(現(xiàn)乙支路)、もう1本北の鐘路通りをそのまま東に行けば東大門(mén)に至る。地下鉄4號(hào)線になる退渓路は三越以東が昭和通りであったが、戦後になってソウル駅まで延長(zhǎng)された。日本人観光客が宿泊?ショッピングしているロッテ百貨店やロッテホテルは、戦前は朝鮮殖産銀行(寫(xiě)真2)と半島ホテル(寫(xiě)真3)であった。そのロッテの対面には、京城電気(韓國(guó)電力公社)や三井物産京城支店などが今も殘っている。ソウルの銀座とも言える明洞(ミョンドン)はかつて本町通りと言う一番の繁華街であったが、その地位は今も同じである。10年前は日本人観光客が多くみられたが、現(xiàn)在は中國(guó)人観光客も減ったとはいえ、多くみられる。

現(xiàn)在も使われている建物としては、三越百貨店(現(xiàn)新世界百貨店:寫(xiě)真4)、隣の朝鮮貯蓄銀行(現(xiàn)スタンダードチャタード銀行:寫(xiě)真5)、その対面の朝鮮銀行(現(xiàn)韓國(guó)銀行:寫(xiě)真6)、京城府庁(舊ソウル市庁?現(xiàn)ソウル図書(shū)館:寫(xiě)真7)、京城電気株式會(huì)社(現(xiàn)韓國(guó)電力公社)や明洞にある明治座(現(xiàn)明洞蕓術(shù)劇場(chǎng):寫(xiě)真8)などがある。10年前にあったスカラ座(舊若草座)はStay?Bホテルとなっている。東大門(mén)近くにあった鉄筋コンクリート水洗トイレ施設(shè)であった東大門(mén)尋常小學(xué)校(寫(xiě)真9)は、15年ほど前までは徳壽中學(xué)校としてあったが、商業(yè)街の発展に伴いなくなった。同じく、名門(mén)京城中學(xué)はもともとの慶煕宮に戻り、京城第一高女は整地されたが、中央にある大きな木は昔からあったであろうと想像できる。

貞洞(チョンドン)付近には多くの外國(guó)大使館があり、ロシア領(lǐng)事館跡もその一つである。當(dāng)時(shí)から立派なれんが造りの京城郵便局は今、ツインビルのソウル中央郵便局となっている。ソウルプリンスホテルから南山小學(xué)校南山手にあった東本願(yuàn)寺は、現(xiàn)在ソウルボランティアセンターとなっているが、周?chē)欷藲垽胧宋簸嗡略痕Eを感じる。南山の麓にソウルユースホステルがあるが、この北に日本公使舘(韓國(guó)統(tǒng)監(jiān)官邸)があった。その玄関付近に日韓併合の裏工作を擔(dān)當(dāng)した會(huì)津藩出身の男爵?林権助男爵の銅像があったが、今では逆さに埋め込まれ、日韓の負(fù)の歴史をまざまざと感じる。同じく、憲兵隊(duì)本部は南山コル公園となり、その中にソウル南山國(guó)楽堂がある。併合前の1896年、南大門(mén)路の三越百貨店の場(chǎng)所に在京城日本領(lǐng)事館があったが、1930年に三越百貨店が建設(shè)された(図1は當(dāng)時(shí)の京城地図)。

■筆者プロフィール:工藤和直

1953年、宮崎市生まれ。韓國(guó)で電子技術(shù)を教えていたことが認(rèn)められ、2001年2月、韓國(guó)電子産業(yè)振興會(huì)より電子産業(yè)大賞受賞。2004年1月より中國(guó)江蘇省蘇州市で蘇州住電裝有限公司董事総経理として新會(huì)社を立上げ、2008年からは住友電裝株式會(huì)社執(zhí)行役員兼務(wù)。蘇州日商倶楽部(商工會(huì))會(huì)長(zhǎng)として、日中友好にも貢獻(xiàn)してきた。

■筆者プロフィール:工藤 和直

1953年、宮崎市生まれ。1977年九州大學(xué)大學(xué)院工學(xué)研究科修了。韓國(guó)で電子技術(shù)を教えていたことが認(rèn)められ、2001年2月、韓國(guó)電子産業(yè)振興會(huì)より電子産業(yè)大賞受賞。2004年1月より中國(guó)江蘇省蘇州市で蘇州住電裝有限公司董事総経理として新會(huì)社を立上げ、2008年からは住友電裝株式會(huì)社執(zhí)行役員兼務(wù)。2013年には蘇州日商倶楽部(商工會(huì))會(huì)長(zhǎng)として、蘇州市ある日系2500社、約1萬(wàn)人の邦人と共に、日中友好にも貢獻(xiàn)してきた。2015年からは最高顧問(wèn)として中國(guó)関係會(huì)社を指導(dǎo)する傍ら、現(xiàn)在も中國(guó)関係會(huì)社で駐在13年半の経験を生かして活躍中。中國(guó)や日本で「チャイナリスク下でのビジネスの進(jìn)め方」など多方面で講演會(huì)を行い、「蘇州たより」「蘇州たより2」などの著作がある。

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