<コラム>中國でのビジネスに酒は必須か?私が得た結(jié)論は…

曽賀 善雄    2017年11月4日(土) 0時50分

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私が中國に赴任した當時はまだまだ「酒を飲まずしては仕事にはならない」という雰囲気が強く、得意先や政府機関とは食事と酒が必須でした。資料寫真。

ある時、平日の白晝の自室。ベッドの上で目が覚めました。ベッドの橫にはズボン、その先にワイシャツ、ネクタイ、上著…と玄関に向かって順番に脫ぎ捨てた服が落ちているではないですか。そして極め付きは、玄関の生乾きの吐しゃ物。いったい何が…。

日露戦爭の戦跡が多く殘っている大連市郊外の旅順。私が著任した當時は、旅順の街の中で外國人が立ち入ることができない場所があちこちにありました。そして、そのエリアの中に私の會社の営業(yè)所があったのです。社長であるにもかかわらず、日本人であるために自社の営業(yè)所に行けないという、よくわからない狀態(tài)がありました。しかし、そこでも仲間である現(xiàn)地社員が頑張っていましたので、捨ておくこともできず、スムーズな業(yè)務(wù)展開のため著任後間もなく、管轄する當局を表敬訪問することにしました。

挨拶が終わった後、近くの中華レストランでお晝の會食となりました。中國東北部の會食には50度を超える「白酒」がつきもの。とはいえ、その日は真っ晝間の會食ですから、まさか…。

そして、出ました「白酒」。しかも、普通のグラスになみなみと注ぎ、お互いに顔をしかめながら乾杯。社業(yè)の発展のため、無理をして乾杯の誘いに応じました。

私が中國に赴任した當時はまだまだ「酒を飲まずしては仕事にはならない」という雰囲気が強く、得意先や政府機関とは食事と酒が必須でした。當時の私はそれなりに飲めましたのでまだよかったのですが、酒が飲めない人にとっては、結(jié)構(gòu)辛かったことであろうと思います。

何とか會食は乗り切ったのですが、とても仕事ができる狀態(tài)ではなくなってしまい、フラフラでアパートに帰りました。そして數(shù)時間後にベッドの上で目が覚め、何が起こったのか思い返しました。脫ぎ捨てた服を拾い集め、我慢ができず玄関の靴脫ぎのところで、ぶちまけてしまったモノも仕方なく自分で掃除をしました。

その頃は、お客様や政府機関の方々との宴席の機會が結(jié)構(gòu)あって、酔いつぶれたこともたびたびでした。酒なしでは商売ができないと言われていた頃です。また、その場の自分の立場、相手や周囲との力関係などによって、どの程度まで飲めばよいのか、或いは飲んでもよいのか、新參者の私には判斷するのが簡単ではありませんでした。

その後、中國の急激な経済成長も背景にあり、「酒」よりも「金」に関心が移ったように思います。酒を飲む際にも「白酒」よりは「高級ワイン」が好まれ、同時に、飲み方もずいぶん品がよくなりました。とは言っても、商談などの際の宴席では、気心を深める相手との乾杯が不可欠です。

しかし、私は心臓病を患って以降、同行した社員と共に“共同戦線”を張り、飲めなくなったということを定著させてしまいました?!妇皮蝻嫟蓼氦筏皮仙虊婴摔悉胜椁胜ぁ工趣い铯欷恐袊?、飲まなくてもちゃんと仕事ができるようになりました。

何よりの優(yōu)先事項は自らの健康です。健康であれば、酒なしで仕事を成功させる方法も考えつくというものです。私は駐在期間中に「酒を飲まずとも仕事はできる」という結(jié)論を得ました。

■筆者プロフィール:曽賀善雄

1949年和歌山県生まれ。1971年大手セキュリティサービス會社に入社。1998年6月、中國?上海のグループ現(xiàn)地法人の総経理(社長)として勤務(wù)。2000年4月から13年近くにわたり中國?大連の現(xiàn)法で総経理(社長)として勤務(wù)。2013年1月に帰國、本社勤務(wù)を経て2014年7月リタイア。

■筆者プロフィール:曽賀 善雄

1949年和歌山県生まれ。1971年大手セキュリティサービス會社に入社。1998年6月、中國?上海のグループ現(xiàn)地法人の総経理(社長)として勤務(wù)。2000年4月から13年近くにわたり中國?大連の現(xiàn)法で総経理(社長)として勤務(wù)。2013年1月に帰國、本社勤務(wù)を経て2014年7月リタイア。

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