<コラム>習(xí)近平の「毛沢東志向」がさらに鮮明に、共産黨內(nèi)部からも大物失腳と権力闘爭の関係示唆

如月隼人    2017年11月8日(水) 19時10分

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中國共産黨中央組織部の陳希部長が幹部登用の基準(zhǔn)を論じる文章を発表。政権に対する忠誠を強く求める內(nèi)容で、習(xí)共産黨総書記の「毛沢東志向」が鮮明に打ち出された。これまでの「大物失腳」の背景に権力闘爭の側(cè)面があったと読み取れる部分もある。寫真は天安門広場。

新華社は6日、中國共産黨中央組織部の陳希部長による「幹部育成と選抜では政治標(biāo)準(zhǔn)を突出させよ」と題する文章を発表した。幹部登用の基準(zhǔn)として「黨への忠誠」、事実上は習(xí)近平政権に対する忠誠を強く求める內(nèi)容で、習(xí)共産黨総書記(國家主席)の「毛沢東志向」がさらに鮮明に打ち出された。また、これまでの「大物の失腳」の背景には権力闘爭の側(cè)面があったと読み取れる部分がある。

文章は「わが黨はマルクス主義政黨だ」「これまで政治標(biāo)準(zhǔn)を人事の主要な標(biāo)準(zhǔn)にしてきた」と論じた上で、毛沢東の発言として「主要なのは政治だ。これが出発點だ。幹部は『赤』であり『専』でなければならない」と紹介した。「赤」とは共産主義の思想が強固であることを、「専」とは職務(wù)上の能力を指す。文章は政治姿勢の重視を「毛沢東時代以來の黨の伝統(tǒng)」と主張した。

さらに、これまで失腳した周永康、薄熙來、郭伯雄、徐才厚、孫政才、令計畫の名を挙げて「野心家、陰謀家」と酷評した上で、「幹部が政治上の問題を出すことの黨に対する危害は、腐敗問題に劣らない」と論じた。

中國共産黨は幹部の職務(wù)停止や各種処分を発表する際、黨紀(jì)や法令違反を理由としてきた。しかし、10月29日に明らかにされた第18期黨中央規(guī)律委員會の報告は、周永康、孫政才、令計畫の実名を挙げ「野心家、陰謀家」と評した。陳部長の文章は改めて同じ表現(xiàn)を用いて、失腳の理由として「政治上の問題」を強調(diào)した。つまり「権力闘爭」が背景にあったことを示唆したことになる。

「野心家、陰謀家」は文化大革命期に、失腳した大物幹部に対して盛んに使われた非難の表現(xiàn)だ。この言い方が用いられた対象としては劉少奇(國家主席、迫害されて死亡)、トウ小平(文革後に復(fù)活)、林彪(クーデター未遂?航空機で逃走中に墜落死したとされる)などがいる。

文章は次に、「天下至徳、莫過于忠(天下の至徳、忠を過ぐるものなし)」との2016年ごろからよく使われる言い方を踏襲?!更hへの忠誠は條件つきではなく無條件」である必要があると強調(diào)した。事実上は習(xí)近平政権に対する絶対的忠誠を求めたものであり、文章は続けて「思想上、政治上、行動上において、習(xí)近平同志を核心とする黨中央と高度な一致の保持を自覚し、習(xí)近平総書記を核心とする地位を斷固として守り、黨中央の権威と集中統(tǒng)一指導(dǎo)を堅持する」と論じた。

中國語における「核心」の語は、「唯一無二の中心」のニュアンスが強い。権威と権力を習(xí)近平総書記に完全に集中させることを求めたと読み取れる表現(xiàn)だ。

中國は1966年から毛沢東が76年に死去するまで続いた文化大革命で政治や社會が大混亂、経済も低迷した。毛沢東死後の権力闘爭に勝利したトウ小平は1978年に改革開放を提唱し、1981年には黨決議で文化大革命を完全否定した。すると1980年代には學(xué)生などが民主化要求を繰り返すことになった。1989年4月に発生した最後にして最大の民主化要求は同年6月4日の「天安門事件」で終結(jié)した。

共産黨はその後、民主化運動を厳しく弾圧すると同時に経済建設(shè)に注力。すると社會全體に「政治を語っても無意味。今は金儲けをする時。共産黨がその條件を作った」と、體制を容認(rèn)する風(fēng)潮が一般化した。しかし2000年を過ぎると、腐敗問題や環(huán)境汚染、格差問題が深刻化し、共産黨への信頼は再び低下することになった。2007年に発足した胡錦濤政権は経済成長と同時に出現(xiàn)した各種問題に危機感をもって対応したが、江沢民元総書記との確執(zhí)など、「権力の分散」が存在したことなどで効果はあまり出なかった。

習(xí)近平氏が共産黨の統(tǒng)治體制に強い危機感を持っているのは確実だ。また、共産黨による一黨支配の體制こそが中國を安定して発展させるとの強い信念を持っていることも間違いない。習(xí)近平氏は、共産黨の統(tǒng)治を安定させる方法として、毛沢東時代のような「権威の一極集中」を選んだことになる。江沢民時代のような経済高度成長の再現(xiàn)は不可能であり、胡錦濤時代のような黨上層部における対立があったのでは、共産黨の支配體制が揺らぐとの認(rèn)識にもとづくと考えられる。

習(xí)近平氏は共産黨総書記に就任した直後の2012年12月、共産幹部向けに、群衆(zhòng)との交流を奨勵し、腐敗?浪費?官僚主義?怠惰などを戒め、黨員管理を強化する「八項規(guī)定」を設(shè)けた。中國人の多くは「八項規(guī)定」の名稱から、毛沢東が軍と大衆(zhòng)の関係構(gòu)築を目的として定めた、「三大紀(jì)律?八項注意」を想起するはずだ。

習(xí)近平氏はさらに、17年10月の第19回黨大會で発表した「報告」中の中國共産黨史の振り返りの部分で「(ロシア)10月革命の一つの砲聲が、われわれにマルクス?レーニン主義を送り屆けた」と、毛沢東が1949年6月に発表した「人民民主専制を論じる」で用いた一文と全く同じ表現(xiàn)を用いた。この表現(xiàn)に気づく中國人も、社會の上層部を中心に少なくないはずだ。

さらに第19回共産黨大會は、黨規(guī)約に行動方針としてマルクス?レーニン主義、毛沢東思想、トウ小平理論と共に「習(xí)近平新時代中國特色社會主義思想(習(xí)近平の新時代における中國の特色ある社會主義思想」を盛り込むことを採択した。習(xí)近平氏は「毛沢東思想」に並べて自らの名を冠した「思想」を黨規(guī)約に盛り込んだことになる。

習(xí)近平氏は自らについて、毛沢東を想起させるイメージづくりを進(jìn)めていると考えられる。さらには、共産黨上層部に対して「毛沢東を想起させるイメージづくりをしていることを悟らせる」作業(yè)をしているとも理解できる。そのことで、統(tǒng)制が極めて厳しかった「毛沢東時代」を思い出させ、「抵抗は身の破滅に結(jié)びつく」と発想させるためだ。

一方で、習(xí)近平氏を毛沢東と比べると「脆弱」な面も目立つ。まず挙げねばならないことは、毛沢東が軍事面でも政治面でも數(shù)多くの「修羅場」を経験していることだ。共産黨全體が軍事面で長期にわたり國民黨に圧倒され危機的狀況が続いていただけでなく、毛沢東は政治面においても當(dāng)時の共産黨幹部主流の革命理論に異を唱えたため、1921年の第1回黨代表大會の出席メンバーだったにも関わらず、1935年の遵義會議までは不遇が続いた。

毛沢東はその強烈な個性と不屈の信念で(中國にとっての最終的な良し悪しは別にしても)死去まで続いた「カリスマ指導(dǎo)者」の地位を獲得したと言える。しかし習(xí)近平氏にそのような経歴はない。したがって、習(xí)氏の「疑似毛沢東化」構(gòu)想がどこまで通用するかには予斷を許さない面がある。

■筆者プロフィール:如月隼人

日本では數(shù)學(xué)とその他の科學(xué)分野を勉強したが、何を考えたか北京に留學(xué)して民族音楽理論を?qū)煿?。日本に戻ってからは食べるために編集記者を稼業(yè)とするようになり、ついのめりこむ?!钢袊慰諝荨工蛘i者の皆様に感じていただきたいとの想いで、「爆発」、「それっ」などのシリーズ記事を執(zhí)筆。

■筆者プロフィール:如月隼人

1958年生まれ、東京出身。東京大學(xué)教養(yǎng)學(xué)部基礎(chǔ)科學(xué)科卒。日本では數(shù)學(xué)とその他の科學(xué)分野を勉強し、その後は北京に留學(xué)して民族音楽理論を?qū)煿?。日本に戻ってからは食べるために編集記者を稼業(yè)とするようになり、ついのめりこむ。毎日せっせとインターネットで記事を発表する?!钢袊慰諝荨工蛘i者の皆様に感じていただきたいとの想いで、「爆発」、「それっ」などのシリーズ記事を執(zhí)筆。中國については嫌悪でも惑溺でもなく、「言いたいことを言っておくのが自分にとっても相手にとっても結(jié)局は得」が信條。硬軟取り混ぜて幅広く情報を発信。

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