Record China 2009年4月14日(火) 22時48分
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13日、舊ソ連の同じ大學に留學していた臺灣の蔣経國と中國のトウ小平。その後、別々の道に進んだ2人だが、臺灣で蔣が実権を握ったころ、トウもまた中央への復活を遂げた。寫真は蔣経國の故居。
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2009年4月13日、舊ソ連の同じ大學に留學していた臺灣の蔣経國と中國のトウ小平。その後、別々の道に進んだ2人だったが、臺灣で蔣が実権を握ったころ、トウもまた中央への復活を遂げた。人民網(wǎng)が伝えた。
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臺灣の蔣介石が実務のほとんどを息子の蔣経國に譲った1973年、中國本土ではトウ小平が復活を果たした。トウは直ちに「北京は臺灣との直接対話の準備が整った」ことを宣言したが、蔣は「中國共産黨と接觸するのは自殺行為」とこれを拒否する。蔣は78年、総統(tǒng)に就任。一方のトウも黨の実権を握り、中國を改革開放に導いた。中國は79年、米國と國交を樹立。トウは舊友?蔣に強烈な先制パンチを浴びせた。
同じ年、人民解放軍は臺灣の金門島と馬祖島への砲撃停止を宣言。北京の対臺灣事務責任者である廖承志が「統(tǒng)一」を話し合うため臺灣行きを希望したが、臺灣側は頑なに拒否した。81年には當時の総書記である胡耀邦が蔣を北京に招待するなど、中國は本格的な和平攻勢に。トウ小平は北京政府を「中國」の代表としながら、臺灣や香港にも「特別行政區(qū)」として「相応の外交権を與える」という「一國二制度」を提案した。
蔣は時間の経過とともに話し合いに前向きな姿勢を示すようになった。その仲介役に選ばれたのが當時のシンガポール首相、リー?クアンユーだ。リーはトウからの伝言として、「統(tǒng)一後、100年間は現(xiàn)狀維持」「北京は臺灣の政治や人事に干渉しない」などの條件を提示したが、蔣は結局、応じなかった。88年1月、蔣はついに帰らぬ人に。トウは蔣の生前、「中臺は必ず3度目の合作の日が來る」と強気の発言をしていたが、蔣死去の知らせを聞くと「死ぬのが早すぎた」と殘念がったという。(翻訳?編集/NN)
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