<レコチャ広場>メール依存で日中とも手紙離れ深刻、忘れてしまったその意味

Record China    2009年10月9日(金) 18時14分

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6日、レコードチャイナ?ライターによる個人ブログ「全人類の中國分析2」は、日中両國で、メールへの依存によって手紙離れが進んでいると指摘した。寫真は映畫「山の郵便配達」のロケ地となった恩施トゥチャ族ミャオ族自治州。

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2009年10月6日、レコードチャイナ?ライターによる個人ブログ「全人類の中國分析2」は、日中両國で、メールへの依存によって手紙離れが進んでいると指摘した。

その他の寫真

以下は同ブログから。

最近、本をいただいた。詩人?岡昭雄氏の著作「岡の四季」である。著者の長男にあたる方からの贈り物だった。著者は今年4月、胃ガン三期と告知され、この本の出版を思い立ったと「はじめに」で書いている。この本には、32年4か月にわたって西日本新聞に掲載しつづけてきた2500編以上のコラムが収録されている。

そのなかの「郵便配達員」という文章に、こう書いてあった?!甘旨垽先摔涡膜蚪Y(jié)ぶ大切な手段である。それが支えられているのは炎暑、雨、豪雪のなかを命を賭けて運んでくれる配達人がおればこそだ。山峽の友人に手紙を書きつつ、彼の専屬郵便配達員のような老囑託員を思い浮かべる?!?/p>

それを読んで思い出したのが、ずいぶん前に観た中國映畫「山の郵便配達」(フォ?ジェンチイ監(jiān)督、1999年)だった。長い年月、山間部での郵便配達に従事した父親とその仕事を継ぐ息子の物語だ。中國の雄大な自然に圧倒され、「生きる喜び」の原點を教えられた映畫だった。

映畫のなかで、目の見えない老婦人に屆けられた手紙を、読んで聞かせるシーンがあった。そのシーンを心に浮かべながら、手紙は特別だという思いになる。手紙は、さわれる。手紙には、筆跡がある。手紙は、屆ける人がいる。

最後に手紙を書いたのはいつだったろうか。手紙を書くのはわりと好きだった。高校生のときには、韓國の高校生と文通もしていた。親元を離れてからは、両親にちょくちょく手紙を書いていた。恩師、友人、知人にも手紙を書いたものだ。最後に書いたのは…後輩の結(jié)婚祝いの葉書だ。しかも1年以上も前のことだ。

何でもEメールで済ますようになってしまった。実體がなくさわれない。筆跡もない。屆ける人もいない。あえて言うなら配達員はサーバーか。Eメールのビジネスレターにもルールがある。それを覚える頃には、手書きの手紙のルールなど必要なくなる。そして字が下手になる。漢字を忘れる。

中國語でもほとんど手紙は書かない。書くとしたら役所に提出する紹介狀や依頼狀くらいだ。中國人は書くか、というと、中國人も書かないらしい。いや、「山の郵便配達」のファンにとっては悲しい限りだが、日本人より書かないかもしれない。ショートメッセージ、Eメール、攜帯電話などへの依存度は、日本より大きいと感じる。

7月19日付レコードチャイナの記事によると、中國では、パソコンに依存しすぎて漢字を忘れてしまう「漢字書けない癥候群」が小中學(xué)生の間にも広がっているという。日本人にはひらがながあるが、漢字しかもたない中國人が漢字を書けなくなったらどうなるのだろうか。

同じく9月10日付の記事によると、今月から施行されている新「郵政法」では、これまでは規(guī)制がなかった民間業(yè)者による封書類の配達に規(guī)制が入り、郵便局の獨占業(yè)務(wù)になる可能性があるという。業(yè)務(wù)獨占によるサービスと利便性の低下で、ますます中國人の手紙離れが進むのではないかと思う。

日本も同じだ。手紙の文化は、日本人として、失ってはならないものだと思う。手紙によって人の心が結(jié)ばれると岡氏は書いている。生きるのが苦しい時代だが、1通の手紙によって救われる人が多くいるのかもしれない。

■「全人類の中國分析2」は中國ニュースを材料に、情報を正しく解読することの大切さを伝える、あるレコードチャイナ?ライターのブログ。Livedoor Blogに掲載。

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