<在日中國(guó)人のブログ>中國(guó)人はなぜ日本を上手く理解できないのか?

Record China    2011年1月4日(火) 20時(shí)46分

拡大

2日、孔子の第75代直系子孫で日中関係評(píng)論家の孔健氏は、「中國(guó)人はなぜ日本研究が下手なのか?」と題した記事を中國(guó)のブログサイトに発表した。寫真は南京の書店。中國(guó)の「抗戦勝利60周年」を記念した書籍が並ぶ。

(1 / 4 枚)

2011年1月2日、孔子の第75代直系子孫で日中関係評(píng)論家の孔?。à长?けん)氏は、「中國(guó)人はなぜ日本研究が下手なのか?」と題した記事を中國(guó)のブログサイトに発表した。以下はその概略。

その他の寫真

中國(guó)は昔から日本のことを良く理解していなかった。理解しようともせず日本に関する情報(bào)は常に時(shí)代遅れなものとなっていたため、政治的なミスや外交上の笑い話を數(shù)多く生み出している。

例えば、こんな笑い話がある。明の太祖?朱元璋(しゅ?げんしょう)は皇帝に即位した後、自らの影響力を拡大するため、周辺國(guó)との新たな関係構(gòu)築に急いでいた。洪武元年(1368年)、詔を持った使者を四方に派遣。使者はちょうど南北朝の內(nèi)亂期にあった日本にも送られた。

詔の言葉はかなり橫柄だった。そればかりか、朱元璋は日本の複雑な事情を軽く考えていた。だが、日本としては元寇の恨みがまだ殘っている。しかも、使者が到著した博多を治めていた懐良親王は南朝側(cè)の人間で、京都にいる北朝の天皇の存在を認(rèn)めておらず、中國(guó)の新王朝の名前も知らなかった。そのため、朱元璋の使者を元朝の使者だと思い込み追い返してしまった。

それでも朱元璋はあきらめず、翌年の1369年、脅し文句を満載した詔を持った使者を再び日本に送り込む。だが、懐良親王はとうとうそのうちの5人を切り殺した。結(jié)局、朱元璋の願(yuàn)いは果たせず、子孫に殘した遺訓(xùn)「皇明祖訓(xùn)」で日本を?qū)賴?guó)扱いしてうっぷんを晴らしただけだった。

次に、清の乾隆帝の時(shí)代。當(dāng)時(shí)は江蘇、浙江、福建の商人が貿(mào)易のため頻繁に日本を訪れ、日本の通貨「寛永通寶」を多く持ち帰った。それがそのまま中國(guó)各地で流通するようになったが、その正體を知らない朝廷は貨幣の密造が行われていると疑った。大騒ぎした結(jié)果、文學(xué)者?朱彝尊の文集に記載されていた日本の歴史書「吾妻鏡」の序文に「寛永3年」とあるのを発見し、ようやく真相が判明した。

中國(guó)は昔から大國(guó)意識(shí)が強(qiáng)く、他國(guó)のことなど知る価値もないと考えていた。反対に日本は謙虛な姿勢(shì)で中國(guó)に學(xué)び、知る努力を続けたため、中國(guó)の衰退もすぐに察知することができた。そして、日本は弱った中國(guó)を軽視し、科學(xué)の発達(dá)した西洋の模倣を始めた。ここぞとばかりに中國(guó)を侵略してアジアの“新たな主”になることを企てた。それもこれも、中國(guó)のことを良く知っていたから出來(lái)たことなのである。(翻訳?編集/NN)

●孔健(こう?けん)

孔子の直系第75代目の子孫で、孔子研究家、日中関係評(píng)論家。山東大學(xué)日本語(yǔ)學(xué)科を卒業(yè)、1985年に來(lái)日。96年、チャイニーズドラゴン新聞を創(chuàng)刊。NPO法人日中経済貿(mào)易促進(jìn)協(xié)會(huì)理事長(zhǎng)などさまざまな日中関連の機(jī)関で代表を務(wù)める?!溉毡救摔嫌肋h(yuǎn)に中國(guó)人を理解できない」「日本との戦爭(zhēng)は避けられない」など著書多數(shù)。

※本記事は筆者の承諾を得て掲載したものです。

この記事のコメントを見る

ピックアップ



   

we`re

RecordChina

お問(wèn)い合わせ

Record China?記事へのご意見?お問(wèn)い合わせはこちら

お問(wèn)い合わせ

業(yè)務(wù)提攜

Record Chinaへの業(yè)務(wù)提攜に関するお問(wèn)い合わせはこちら

業(yè)務(wù)提攜