Record China 2011年3月23日(水) 11時(shí)48分
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22日、「とにかく中國に帰ろう」―。宮城県仙臺(tái)市で被災(zāi)した中國人留學(xué)生、梁欣程さんは故郷に帰りたい一心でひたすら自転車をこぎ続けた。「途中、多くの日本人が助けてくれた」と當(dāng)時(shí)の様子を振り返っている。寫真は14日の宮城県名取市。
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2011年3月22日、「とにかく中國に帰ろう」―。宮城県仙臺(tái)市で被災(zāi)した中國人留學(xué)生、梁欣程(リアン?シンション)さんは故郷に帰りたい一心でひたすら自転車をこぎ続けた。「途中、多くの日本人が助けてくれた」と當(dāng)時(shí)の様子を振り返っている。中國青年報(bào)が伝えた。
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14日に無事帰國を果たした梁さん。當(dāng)時(shí)の緊迫した様子を中國青年報(bào)に語った。震災(zāi)當(dāng)日は東北大學(xué)の図書館でレポートを書いていたという。最初は數(shù)秒の揺れだったが、數(shù)分後に再び大きな揺れ。「防災(zāi)訓(xùn)練を思い出し、すぐに機(jī)の下にもぐった」。そのうち、揺れはどんどん大きくなり、機(jī)の位置が大きくずれ、床が棚から落ちてきた本で埋め盡くされた。「その時(shí)初めて、これは大変だと思った」という梁さん。
それからさらに數(shù)分後、揺れが少し収まった時(shí)、警備員が駆け込んできてその場にいた人たちを避難通路に誘導(dǎo)した。建築が専門だという梁さんはその途中、柱に亀裂が入っていないことを確認(rèn)し、安心したという。その時(shí)はまだ、落ち著いたら図書館に戻ってレポートの続きを書こうと悠長に構(gòu)えていた。
學(xué)生たちはパニックになることもなく、落ち著いて広い駐車場に避難した。ところが、しばらくすると講義棟3階の化學(xué)実験室から火の手があがる。隣の林にまで燃え広がる勢いだ。山肌をむき出しにした裏山からは小石が転げ落ちてくる。その時(shí)、誰かが叫んだ。「山崩れが起きるぞ!」。
その日の夜7時(shí)頃、思いがけず在日留學(xué)生仲間から電話がかかって來た。それから思い立ったように何度も大連の実家に電話をかけ、2時(shí)間後にようやくつながった。家族には「大丈夫だから」と伝えた。大學(xué)が自分たちの消息を?qū)い突丐盲皮い毪嚷劋?、心が溫かくなった。だが、その後電話?度とつながらなかった。
梁さんの頭の中はもう、「中國に帰ろう、家に帰ろう」でいっぱいだった。ちょうど14日の東京―大連便を予約してある。だが、當(dāng)時(shí)仙臺(tái)はほぼすべてのライフラインが寸斷されていた。仙臺(tái)から東京まではバスで6時(shí)間の距離。今から自転車で向かえば、14日の便に間に合うかもしれない―。
翌12日、梁さんは仙臺(tái)を後にした。途中で道に迷ったが、通りがかりの年配の男性が丁寧に地図を書いてくれた。その地図は今でも大事にとってある。夜は真っ暗だった。自転車のわずかな燈りを頼りにひたすらペダルをこぎ続けた。夜中の3時(shí)過ぎに福島市に到著。電気が付いていたので安心し、夜明けまでしばしの休憩をとった。それからさらに5時(shí)間こぎ続け、郡山市のバスターミナルに到著。停車しているバスの中から東京行きを捜した。
一か八か、乗せてもらえるかどうか聞いてみた。運(yùn)転手は梁さんが被災(zāi)者だと知ると、すぐに本部に聞いてみると言ってくれた。その間も車內(nèi)の乗客たちが運(yùn)転手に「先に中に入れてあげて」と言いながら手招きしている。梁さんの疲れた様子を心配し、何人もの人がパンや紅茶、飴などを分けてくれた。年配の男性はほこりまみれの服をはたいてくれた?!割B張れ」という言葉が胸に響いた。
日本人はこんな時(shí)でも冷靜で他人に対する優(yōu)しさを忘れなかった。東京もいつもと変わらない。被災(zāi)地のスーパーは売り物がすべて無料になっていた。無事空港に著いた梁さんは大連の母親に電話をかけた。驚いたことに國際電話も無料になっていた―。(翻訳?編集/NN)
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