<コラム>「食べ殘しはだめ」食品の浪費(fèi)に全力を挙げる中國

吉田陽介    2020年9月13日(日) 12時(shí)0分

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8月半ば、習(xí)近平?中國共産黨総書記が食糧の節(jié)約についての指示を出してから、中國の公式メディアは食事の面での節(jié)約を呼びかけた。寫真は中國のレストラン。

8月半ば、習(xí)近平?中國共産黨総書記が食糧の節(jié)約についての指示を出してから、中國の公式メディアは食事の面での節(jié)約を呼びかけた。

インターネット上にアップされていた、吐きながら大食いする動(dòng)畫は削除され、他のネットユーザーから批判の的になった。

「食べ殘しゼロ」運(yùn)動(dòng)は第18回黨大會以降もあり、レストランではハーフサイズなども出された。今回改めて食糧の節(jié)約について呼びかけられたが、それは穀物輸入の減少が背景にあると言われているが、改革開放の「負(fù)の遺産」の処理という面もあると私は思う。

「モノは溢れるほどある」

食べ物を大切にしなくなった中國人

改革開放前は計(jì)畫経済で、人々は自分の食べたいものをすぐに手に入れることはできなかった。また、毛沢東晩年の時(shí)代は、経済建設(shè)よりも革命運(yùn)動(dòng)の方に重點(diǎn)が置かれ、経済が停滯していた。改革開放後はそういう狀況が一変し、人々は金さえあれば、欲しいもの、食べたいものを手に入れることができるようになった。中國で大學(xué)入試が復(fù)活してから大學(xué)に入った中國人は、「大學(xué)に入って期待していたことは、勉強(qiáng)もそうですが、ご飯が食べられることでした」と私に語った。彼の言葉は、改革開放前とその後の中國人の食事に対する態(tài)度の変化を表していると思う。

改革開放から40年。中國の市場にはモノが溢れ、消費(fèi)者の所得も増えた。そのため、食べ物を殘すということに、さほど抵抗を感じない人が、特に若い世代に多くなったのではないかと思う。

中國での留學(xué)生活を始めたばかりの時(shí)、學(xué)生食堂で注文したラーメンのボリュームに驚いた。量的には日本のラーメンの二杯分はあったと思う。これは食べ切れないなと思っていると、一緒に食べていた日本人留學(xué)生は「別に殘せばいいじゃないか。中國は浪費(fèi)の國なんだから」と言った。「浪費(fèi)の國」とはやや言い過ぎの感はあるが、現(xiàn)に、周りで食べていた中國人學(xué)生も平気で殘していたので、そうなのかなと當(dāng)時(shí)は納得した。

私の小さい頃、食事を殘すと「もったいないお化け」が出るというCMが放映されたこともあり、學(xué)校の給食や家の食事でも、「殘すともったいないお化けが出るよ」とよく言われた。だから、出されたものを殘すと、相手に悪いような気がして、外で食べる時(shí)でも殘さないようにする。それは中國での生活を始めてからも同じだったためか、お腹周りがたっぷりしてしまった。

食堂で食べていた中國人學(xué)生はモノが豊富な改革開放の中で育ったので、殘すことには抵抗がなかったのだろう。ある女子學(xué)生は、トマトと卵の炒め物の丼を食べていたが、上の具だけを食べて殘りのご飯には全く手をつけていなかった。器用な食べ方をしたなと感心した。

中國では外で食べる場合、殘すのが普通というようなことを留學(xué)前に聞いていたし、私と一緒に食事に行った中國人の友人も、普通に殘していたので、殘せばいいんだと思っていた。

「外では浪費(fèi)、內(nèi)では節(jié)約」

家族との食事では食べ殘しはNG

だが、その考えが一面的だったことをその後実感させられた。2002年、留學(xué)先の大學(xué)院で勉強(qiáng)していた頃、留學(xué)生向けの必修科目の授業(yè)に出ていたが、同年冬頃、リーダー役の韓國人留學(xué)生が年配の中國人の擔(dān)當(dāng)教員を招いた食事會を行った。參加人數(shù)は20人を超えており、しかも今よりも物価が安かったため、料理をガンガン注文した。結(jié)果、當(dāng)然のことながら、食べ殘してしまった。私たちが解散しようとすると、年配の中國人教師の「待ちなさい。食べ物を殘すとは何事です」という厳しい聲が飛んだ。その中國人教員は「私たちの若い時(shí)は、食料がなくて困っていたのです。食べ切れなかったら、持って帰るのです。いいですね」と言った。教員の近くにいた私は、「ほら、あんたも持って帰りなさい」と言われ、料理をいくつか持って帰ることになった。

內(nèi)輪で食事に行く場合は、完食するようにするようだ。結(jié)婚したばかりの時(shí)、妻の親戚と顔合わせのために食事したが、その時(shí)はたくさんの料理が並んだ。多分殘すんだろうなと思っていたら、ある年配の親戚が「食べ殘しはいかんぞ。若いやつはもっと食え」と言って、みんな手分けして食べ、すっかり完食していた。

食べ物を粗末にしない中國人だが、外では違うようだ。中國人はお客をもてなす時(shí)、食べ切れないほどのご馳走を出す。中國と接點(diǎn)のある読者は、一度は中國人の“接待攻勢”を受けたことがあると思う。

中國人と結(jié)婚してから、よく妻の親戚の家で食事するようになった。ある親戚の家で酒を飲んだ時(shí)、締めに牛肉ラーメンをご馳走になった。その時(shí)の私は日本スタンダードが頭にあり、殘してはいけないと思って全部平らげた。すると、相手はすっとお代わりを出してきた。散々飲んだり食べたりした後のラーメンだったので、食べられるわけもなく、凍ってしまった。すると、妻に「あのね。全部平らげるってことは足りないってこと。中國に長くいてそんなことも知らなかったの」と呆れ顔で言われ、赤面した。

食べられるだけ注文するのはケチ?

浪費(fèi)してまで接待する中國人

內(nèi)輪の食事では食べ物を無駄にしない中國人だが、お客をもてなす時(shí)に、たくさんの料理を出すという習(xí)慣は考え直す必要があるだろう。日本の場合は、先にいくつか頼んで、足りなかったら追加する形をとる。このやり方は、食べ物も無駄にならないし、もてなされる方も気が楽だ。

だが中國スタンダードで見ると、日本スタンダードでの接待は相手にケチだとみられるそうだ。なぜなら、もてなされる方も、ホストの懐具合を考え、満足していなくても何も言わないので、相手が満足するまで料理をどんどん出す方が誠意ある接待というのだ。

2011年秋頃、私はIT會社を経営している中國人の友人に頼まれて、日本人の同業(yè)者の社長の接待を手伝ったことがあるが、會食は中國式のたくさん料理を出すものだった。會食に參加したのは私を入れて4人だったが、明らかに私たちが食べ切ることができない量だった。

ホスト役の中國人社長が席を外している時(shí)、日本人社長はぽつりと言った

「4人なのに、これだけボンボン出してくるってのは、メンツなんでしょうね。日本だと、みんなが食べられるくらいの量を頼むのにね」。

この社長の言葉には、ここまでするのはやり過ぎではないかという不満の気持ちが込められていることは否定できない。

中國人と酒を飲むときも、相手が飲める人とわかると、「乾杯攻勢」で次々と酒を飲ませてくる。それは何も相手をうんざりさせるためでなく、歓迎の気持ちを伝えるためだ。それはお客を歓迎するための會食についても同じことが言える。

ただ、今はこういうやり方も変化していると私は思う。ある若い中國人研究者と食事に行ったとき、ある程度の量の料理を出してから、追加するかどうか聞き、テーブルの料理がなくなったら、もうお腹いっぱいですかと聞いてくる。私のような歳になると、ガンガン物を食べるよりも、これだという美味しいものをいくらか出してくれる方が、気が楽だし、體重増加を気にする必要はない。

今、中國は外國から色々な価値観が入ってきており、外國経験が長い人も多くなってきているため、「新しい常識」ができつつある。それは食事の浪費(fèi)についても同じことが言える。

■筆者プロフィール:吉田陽介

1976年7月1日生まれ。福井県出身。2001年に福井県立大學(xué)大學(xué)院卒業(yè)後、北京に渡り、中國人民大學(xué)で中國語を一年學(xué)習(xí)。2002年から2006年まで同學(xué)國際関係學(xué)院博士課程で學(xué)ぶ。卒業(yè)後、日本語教師として北京の大學(xué)や語學(xué)學(xué)校で教鞭をとり、2012年から2019年まで中國共産黨の翻訳機(jī)関である中央編訳局で黨の指導(dǎo)者の著作などの翻訳に従事する。2019年9月より、フリーライターとして活動(dòng)。主に中國の政治や社會、中國人の習(xí)慣などについての評論を発表。代表作に「中國の『代行サービス』仰天事情、ゴミ分別?肥満?彼女追っかけまで代行?」、「中國でも『おひとりさま消費(fèi)』が過熱、若者が“愛”を信じなくなった理由」などがある。

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