Record China 2011年4月26日(火) 9時(shí)45分
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20日、ある中國(guó)人ジャーナリストがブログサイト?新浪ブログで「元代以降の日本による中國(guó)軽視」の原因を分析した。寫(xiě)真は清朝女性の衣裝。
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2011年4月20日、ある中國(guó)人ジャーナリストがブログサイト?新浪ブログで「元代以降の日本による中國(guó)軽視」の原因を分析した。
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隋?唐代の中國(guó)は日本の師であり、宋代の中國(guó)は日本が思いを馳せる場(chǎng)所だった。しかし、続く元?明?清は大國(guó)であったにもかかわらず、日本にとって敵となった。なぜだろう。中國(guó)に対する隣國(guó)の態(tài)度の変化をみることで、中世以降のわが國(guó)が失った魅力、ひいては國(guó)際社會(huì)における地位の変化を知ることができる。
秦から隋?唐の時(shí)代まで、日本は中國(guó)を手本としていた。唐代に日本の中國(guó)文化崇拝は頂點(diǎn)に達(dá)し、宋代までは我々の文化の吸収に努めていた。しかし日中両國(guó)が交流を進(jìn)める中、日本のエリートたちは、中國(guó)人が持つ時(shí)代遅れの観念、為政者の統(tǒng)治感覚の欠如に気付く。
やがて南宋が元に滅ぼされる。漢民族がモンゴル民族に打ちのめされ、日本は中國(guó)に対する見(jiàn)方を大きく変え始めた。日本の中に“政治大國(guó)としての東洋のリーダー”であらんという意識(shí)が芽生え始めたのだ。さらに、二度の元寇が失敗すると、日本は自信をさらに強(qiáng)めることになった?!笣h民族を滅ぼした蒙古を、日本人は打ち負(fù)かしたのだ」と。
元代以降の中國(guó)に日本が敵対をはじめた理由には、こうした政治的側(cè)面以外に、日本人の中國(guó)文化に対するコンプレックスも背景にあると考えられる。宋代までの中國(guó)に対する日本人の憧れは強(qiáng)かった。宋が元に滅ぼされ、日本人は考えた。異民族が統(tǒng)治した元朝以降の中國(guó)に“本當(dāng)の中國(guó)人”はいない、と。
17世紀(jì)以降、たびたび外敵の侵攻を許したわが國(guó)は弱體化する。逆に明治維新を成功させた日本は、ついに“打倒中國(guó)”の準(zhǔn)備を本格化した。中國(guó)軽視は一層激しくなり、日本の指導(dǎo)者は「もはや中國(guó)に希望はない」とまで考えるようになったのだ。(翻訳?編集/AA)
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