<コラム>日本人の私が中國人と長く付き合うことができるわけ

茶妹小丸子    2018年2月13日(火) 0時10分

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中國は人口が多いので質の良い人間も質の悪い人間も日本よりは実數(shù)が多いのである。このような中で私は質の良い中國人と知り合うことが出來、付き合うことができているのは大変にラッキーと言えるであろう。資料寫真。

この會社に就職してから數(shù)週間後だったか?中國広西チワン族自治區(qū)のこの會社の本部から新しい男性社員(T氏)が來日した。年齢は私と同じだった。日本語もある程度達者で頭の切れそうな男性だったが、彼が來てから1週間くらいしてから社員同士の世代の差というのか?私が會社にいると1日1回ほどT氏は年齢的には重鎮(zhèn)のJ氏といつも喧嘩をしていた。

何で言い爭いをしているかは私には分からなかったが、後で2人が外に出かけた時に社長が私に「世代の差とも言うのか、仕方ないですね」と言っていた。さらに私が驚いたのが、J氏は當時の中國の國営企業(yè)の窓際社員だったことだ。私は「えっ?中國にも窓際社員とかいるんですか?」と訪ねたら、「いますよ。しかもある部屋にそういった仕事のできない社員ばかりを集めた部署というか部屋があって、みんな一日中新聞などを読んで時間を潰しているんです」ということだった。私は社長のこの話を聞いて、あー、だからJ氏はいつもここにいても新聞を読んでいる時間が長いのかと納得した。

そう言えば、私が入社して1、2カ月したころも電話をして、契約を取り付けるのはいつも社長で、J氏は電話に出てもいつも電話は社長に回していた。當時の私の中國語能力でもJ氏が電話で契約等の話をしていないことは分かっていた。そして、T氏は社長同様に契約にこぎつけるべく毎日奮闘していた。T氏はタルク(我々が使用しているベビーパウダーや化粧品のフェイスパウダーの原料になるもの)の擔當であった。

T氏はとても気さくで優(yōu)しいのだが、今で言うところのちょっとキレやすい性格でもあったのと當時は多少の自信過剰であった。だが、社長はそんな彼の性格もしっかりと把握していて操縦も上手かった。社長は何しろ余程の事がない限りキレるとか怒るということをしない人だった。T氏とJ氏が言い爭いをしても最初は黙って聞いているが、2人の爭いが終わったら社長が穏やかに、建設的に話をしていさめていた。後で社長は私に「もう、あの2人には困りますよー。T氏は若いからすぐにカッとするし、J氏は仕事ができないから…」とぼやきが入ることがあった。

ジェネレーションギャップは日本人中國人に関係なくあるようだ。だが、年齢的に間に挾まれた社長は大変そうだった。社長は當時40代前半くらいで、J氏は當時50代だったと思うので、年齢的に歳が下の社長にしてみたらちょっとやりにくかったのだと思う。

そして、ある日、社長がお客様のところに行っていたのか?今では具體的な記憶がないが、社長がオフィスにおらず、その時は私とJ氏の2人だけだった。すると、J氏は私に「オフィスの備品をもう少し揃えないといけないから、今カタログを見ているから、後でここに電話して注文してください」と言った。ただ、私は社長がいないのにいくらなんでも勝手に電話はできないので、電話をするふりをして、「電話がお話中で繋がらない」とJ氏に噓を言ってその場をしのいだ。

そうしているうちに社長が帰ってきて私は事の顛末を話したら社長が「そうしてくれてよかったですよ。會社にも予算があるし、やたらに高いものを勝手に買われても困る。J氏はそのところが全く分かっていないから困ったもんです。ここは中國の國営企業(yè)とは違いますよ。J氏はまだそうした感覚が抜けていないのかもしれません」と再びぼやきが入った。と、私と話が済んだ社長はJ氏に改めて話をしていた。その話の中で社長はJ氏に「私が留守の時に勝手に備品を購入するよう彼女に言いつけないように!彼女も立場上困ってしまうのですよ」と言っていた。

こうした小さな爭い事がここには多かったが社長のあのポジティブと言うのか?明るい性格が會社の雰囲気を良くしていた。會社では仕事の上でも多少のトラブルなどもあり、その上社員同士の爭いの仲裁などもやらなければならない社長はとても大変そうだった。

私以外は皆中國人だったが、社長とT氏は同じ広西チワン族自治區(qū)の出身でJ氏は江蘇省の出身だった。広西チワン族自治區(qū)と江蘇省では言葉も風習も恐らくまるでと言って良いほど違うので、こうした地域性から來る気質が長い時間一緒にいれば出てくることもあるのだろうと私は客観的に感じていた。この地域性に加え年代世代の差が出て來るわけだから何か爭いが起きたらそれは大変である。これをいさめる社長はもっと大変なのであった。

その點、私は1人だけの日本人だったのである意味気楽であった。おじさんばかりの職場だったが、女性ということで丁重に扱ってくれていた。仕事に関しては時には厳しく指導をされたが、これが後に私の生活で大変役に立つことになったので、今では社長には本當に感謝している。中國の習慣や決まりでわからない事があれば懇切丁寧に教えてくれ、ある日から社長の代わりに中國にFAXの文章を書いてくれ!と言われた時にも社長が「大丈夫、文法的に間違いがあれば私がちゃんと添削します。ここは良いでしょう?駅前留學のNOVAみたいで。アハハ!」と言ってくれた。あの時、社長の添削のおかげで貿易ビジネスの初歩の文章が書けるようになっていた。もう、ここに居たら実踐あるのみで毎日が勉強だった。

反対に中國人の社長が日本人の風習などでわからない事は私に聞いていた。そうして両國の人種や文化と風習が入り混じったこの會社は私にはとても居心地が良かった。

だが、毎日が平和というわけでもない。トラブルも時々発生していた。そのトラブルのほとんどが中國側の不手際だった。日本ではおよそありえないような內容だった。社長も頭を痛めていたが、そこは社長の裁量でいつも円満に解決していた。

私のいた會社は中國からの鉱山物を日本の商社や企業(yè)に販売していたのだが、中國と日本の企業(yè)の間に立っているので雙方からのコミッションをもらって會社の生計を立てていた。なので、契約上トラブルでもあろうものなら、こちらのミスでコミッションが減ってしまう可能性もあるのでもう解決には特に力を注いでいた。

中國からの鉱山物は中國の工場などで多少の加工をした後に中國の港から香港等を経由するか、中國の港によっては直接日本の港に到著していた。そして、日本の港に到著した後は日本の港で検品が行われ、契約書通りの內容かどうかをチェックされるのだが、數(shù)回この検品する中で重量が契約書と合わないことがあった。1キロ2キロ程度なら誤差ということで日本の企業(yè)も納得するのだが、100キロ単位で少なかったことがあり、日本企業(yè)からは當然クレームが入り、社長が中國側に連絡をして原因を探るととんでもない事がわかった。

それは、トラックで運ぶ際に運転手の休憩を狙って、情報を聞きつけた不屆き者がトラックの積荷を抜き取ってしまうのであった(恐らくこの後転売する)。今なら良くテレビで紹介されるであろう內容である。中國ではこうしたことが當時割りと多かったようだった。

社長は當然頭を悩ませ、中國側の企業(yè)に事情と解決策を見出すべく交渉が始まる。その様子を私はいつも側で聞いていたのだが、中國人同士の交渉もこれまた一筋縄ではいかないこともあった。しかしそこは社長のあの持ち前の明るい前向きな性格と本來の実直な性格でいつも無事に解決していた。日本のお客様もそんな社長の事を理解してくれていて、次もちゃんと継続的に社長との取引をしてくれていた會社が多かった。

社長は明るく前向きな性格だが、ある日、私の親の世代でも経験したことのないような話を聞かされて驚いた。

社長は広西チワン族自治區(qū)の日本では全然聞いたことがない小さな村の出身であった。確か長男ではなく、末っ子だと聞いた。當時中國は大學の進學は今のように厳しくはなかったが、簡単に入れるものでもなかった。社長は北京大學の日本語學科にその村でただ1人入ったそう。當時の中國は“當案”と言って個人の情報が入った書類を持って大學入學や就職先に渡るのであった。個人情報と言っても単なる履歴書ではなく、家族構成、家族の思想や共産黨などの忠誠心、本人の思想、宗教感などなど、日本ではおよそ記入されることのない、中國ならではの內容だ。社長の話だと試験も確かにやさしくはないが、この書類の中味が左右した可能性が高いという。

當時広西チワン族自治區(qū)の小さな村から中國の中央政府のある北京の北京大學(日本の東京大學に匹敵する)の日本語學科に入ったというのはもう村の自慢の男子であったに違いない。

そんな社長の大學生活は平和な學生生活ではなかった。あの文化大革命が起こったのだ。そのせいで學業(yè)は半ば中止になり、學生は文化大革命に翻弄されてしまった。あげくの果てに學生によっては下放(地方の農村に飛ばされ過酷な労働を強いられる)され、學生生活を謳歌(おうか)するどころか地獄であったに違いない。案の定社長も下放された。

中國全土は毛沢東一色になっていたという。それが証拠に社長に見せてもらった當時の中國語の辭書の隨所には毛沢東語録が書かれてあった。毛沢東語録も見せてくれた。當時學生はこの毛沢東語録を全て暗記しなければいけなかったそうだ。今の若い世代の中國人には恐らく想像もつかないことである。私たち日本人にも想像がつかない。社長が學生時代の中國は今で言うところの北朝鮮の狀況と類似しているかもしれない。

今の60代の中國人の青春時代は大変に過酷な時代であったと言えるので、この年代の中國人の多くは忍耐が備わっているように思う。恐らく過酷な青春時代で培われたものであろうと想像する。そんな過酷な時代を生き抜いてきたと思われる私の就職した會社の社長はいつもとても明るく、私がミスをしてしまった時も決して大聲で怒鳴ったり、くどくどと無意味な事を言って説教したりるすことは決してなかった。沈著冷靜に私に「人間は完璧ではありません。ミスはすることもあります。ミスをしたら今後は同じミスをしなければ良いのです。きちんと學習すれば良いのです!そして、分からない事があったら私や他の社員に聞けば良いのですよ!」と言ってくれた。

これは他の中國人社員に対しても同じで、決してアグレッシブになったりせずに、社長はいつも沈著冷靜にどこが間違ってこうなった、今後どこをどう直せば良いのかをとくとくと説明していた。だから私ももう1人の男性社員もこの社長を全面的に信頼していた。

こうして私の會社員生活は4年以上が過ぎていた。私が入社して數(shù)年後、私は社長から「私の故郷の南寧に是非行って下さいよ!とても良いところですよ。近くにはあの有名な桂林もありますよ。もし、來てくれたら私の家內と娘に案內させますから!」と言ってくれ、私は母と母の友人と本當に行った。

そうして、現(xiàn)地南寧に到著すると社長の奧様と娘さんが迎えに來てくれた。そこでとても珍しい料理をご馳走になった。それは南の地方特有とも言えるかぼちゃの花と葉っぱの炒め物だった。後に他の地方の中國人に聞いたらそんな料理は食べたことがない!と言っていた。

この數(shù)年後、社長の奧様と娘さんは社長と暮らす為に日本に來日した。社長のご家族は私に対してもとても親切にしてくれて、娘さんはすぐに私と仲良くなってくれて友達のようになった。社長の一家はその後日本での永住権を取得し、娘さんにも妹ができた。上の娘さんは日本の大學に入り、しばらくは日本にいたがその後中國に帰國し、中國で結婚した。

そして、私もこの娘さんの結婚式に招待され、生まれて初めて中國人の結婚式に參加した。當時私は上海の暮らしを終えて、日本で生活し始め、私にも子どもが生まれていて、私は自分の子どもと一緒に彼女の住む南寧に行き、彼女の結婚式に參加した。彼女は私の子どもを見てとても感慨深そうにしていた。私が結婚する前、彼女は17才の高校生だった。年月が経ち、私は結婚し子どもができ、彼女も適齢期になり、結婚したのだから。

彼女は日本の永住権を持っているので結婚した後も1年に數(shù)回南寧から日本にやって來て両親の住んでいる家に來ていた。実はこの當時、私は上海での4年の駐在生活をするためにこの會社を退社した。そして駐在生活を終えてから子どもが生まれて、子どもが幼稚園に入園した數(shù)年後、社長から連絡があった?,F(xiàn)在人手が足りないということで私に再び來てほしいということだったが、當時子どもがまだ幼稚園だったのと、幼稚園の迎えの時間が早く、仕事をしてしまうと時間のやりくりが難しいので社長に話したら「あーそれなら子どもの幼稚園が終わってからでいいのと、子ども連れで出社してくださいよ。うちにも小學生の次女がいるから2人で遊ばせたら良いんだし、そうしてくれますか?」と言われ私は再び元の會社で働くことになった。

結局社長と奧様のお言葉に甘えて週に數(shù)回子連れで出社して働いた。この後社長も奧様もある程度に年齢になったのと、奧様が腎臓を悪くされていて奧様も毎日會社に出て働く事がなかなか大変になったので、會社はたたむことになり、社長夫婦は日本で生まれた次女のために日本で生活していたが、この次女が高校生になった時に次女は全寮制の東京ではない高校に入學した。

社長夫婦は1年の半分を日本で過ごし半分を中國で暮らすという生活スタイルになっていったそう。私はこの後に數(shù)回社長ご夫妻を再會し、長女とも再會したが、最近はめっきり會う機會がなく、今では専らSNSで長女と會話をしている。

私が今でも中國人と長く付き合うことができるのも、北京の姉さんとこの社長一家との出會いのおかげと言える。もし、私の雇い主の中國人が拝金主義とか日本を理解しないような人だったら私も多分すぐに辭めていたのかもしれないが、あの穏やかで明るい社長とそのご家族に支えてもらい、仕事を教えてもらったおかげで私の中國人に対する印象はちまたの日本人が抱く印象とは違う意味で良いものとなった。

中國は人口が多いので、質の良い人間も質の悪い人間も日本よりは実數(shù)が多いのである。このような中で私は質の良い中國人と知り合うことができ、付き合うことができているのは大変にラッキーと言えるであろう。一つ言えるのは、どこの國の人間に限らず、質の良い人間と付き合う為には自分自身も質を良くする必要があるし、特に外國人と付き合うにはやはりお互いに相手の國の事を理解しようという姿勢が1番大切だと思う。

■筆者プロフィール:茶妹小丸子

1967年生まれ。千葉県出身。中國浙江省杭州大學(現(xiàn)浙江大學)漢語進修コースに1年留學。広西チワン族自治區(qū)外貿公司駐日本代表事務所に5年の勤務、上海に4年間駐在した経験を持つ。バリバリのキャリアウーマンでもない、半分パートタイムで半分専業(yè)主婦が30年間自分の目で見て聞いた事を日本の皆さんに紹介できたら!と思っている。

■筆者プロフィール:茶妹小丸子

1967年生まれ。千葉県出身。中國浙江省杭州大學(現(xiàn)浙江大學)漢語進修コースに1年留學。広西チワン族自治區(qū)外貿公司駐日本代表事務所に5年の勤務、上海に4年間駐在した経験を持つ。バリバリのキャリアウーマンでもない、半分パートタイムで半分専業(yè)主婦が30年間自分の目で見て聞いた事を日本の皆さんに紹介できたら!と思っている。

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