如月隼人 2018年3月3日(土) 0時0分
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今回も、1980年代後半から90年代にかけて私が中國で體験した話です。今回は當時の中國當局のイスラム系民族に対する姿勢についてご紹介しましょう。寫真は中國の新疆ウイグル自治區(qū)。
今回も、1980年代後半から90年代にかけて私が中國で體験した話です。今回は當時の中國當局のイスラム系民族に対する姿勢についてご紹介しましょう。
▼中國國內(nèi)のイスラム教信者は約2500萬人
まず、中國には2500萬人程度のイスラム教信者がいるとされます。民族別ではウイグル、ウズベク、回、カザフ、キルギス、サラール、タジク、タタール、ドンシャン、ボーナン、ドンシャンの各民族がイスラム教信者とされています。55ある少數(shù)民族のうち10民族がイスラム系民族であるわけです。
ただ人口を見ると、10民族のうち回族が約1200萬人、ウイグル族が約1000萬人なので、この2民族がほとんどを占めているわけです。
イスラム系民族と言っても全員が信者ではありません。例えば、回族にもウイグル族にも共産黨員はいるのですが、共産黨員は宗教を信じることを、少なくとも表向きには禁止されています。逆に、「信仰は仏教」とされるチベット族やモンゴル族にも、イスラム教を信じるグループがあります。中國におけるイスラム教徒2500萬人は、おおざっぱな目安と考えた方がよさそうです。
ところで、日本では近年、中國當局が宗教、とりわけイスラム教とチベット仏教を弾圧している、といったニュースが報じられることがあります。私が中國に長期滯在していた時期の感覚からすれば、これがどうも妙な感じなのですね。私はむしろ、中國當局がイスラム教徒に気を使っていたと感じていたのです。
▼食料不足の時代にも、イスラム系民族への「肉配給」には気を配った
例えば「食べ物」の問題があります。中國にはかつて、食料の配給制度がありました。穀類なら、住民に「糧票(リアンピャオ)」という呼ばれる配給切符が配られます。この「糧票」がなければ、現(xiàn)金があっても穀物を売ってくれないわけです。
1990年ごろには、「糧票」不要の飲食店が一般的になっていきましたが、地方に行った時には「糧票」がないと食事ができない場合もありました。
とにかく、國の食料事情が悪かったということで、この點は中國を非難できません。日本でも1938年に食料や日用品の配給制度が導(dǎo)入されました。配給制度は戦後も続き、形骸化されていたとはいえ制度の名殘として存在していた米穀配給通帳が撤廃されたのは、なんと1981年でした。
▼「宗教に配慮」と言えなかった共産黨政権の苦肉の策
國が貧しい場合、全體量が不足する食料を國民にどう配給するか。これは行政にとって極めて重要な仕事です。不公平感が高まれば、「食べ物の恨みは恐ろしい」ということに、即なります。
中國では、「糧票」以外に「肉票(ロウピャオ)」というものもありました。これがなければ肉を買えないわけです。
ここに、イスラム教の問題が絡(luò)んできます。ご存じのように、イスラム教徒にとって豚肉食はタブーですから。そこで當時の中國當局は、イスラム系民族の住民に対しては彼らに対して羊肉や牛肉を優(yōu)先して配給したのです。しかし、共産黨政権である以上、「宗教に配慮」とは言いづらい。そこで、羊肉や牛肉を優(yōu)先して配給する理由について「民族の習慣を尊重」と言い換えていました。いささか苦しい“理論武裝”に思えますけどね。問題が食肉だけに「苦肉の策」といったところです。
▼「モスク移転」を強要できず道路建設(shè)にも影響
こんな経験をしたこともあります。雲(yún)南省內(nèi)で、ちょっとした調(diào)査に行ったことがあります。複數(shù)個所を回りましたが、行き先はいずれも省都の昆明市に近く、同市內(nèi)の研究所に所屬している民族學(xué)の先生に連れて行っていただきました。乗用車に乗って行ったのですが、新しくできた道路で快適でした。ところが、その道路が1カ所で妙な灣曲をしていたのです。ちょうど、集落ひとつを避けていました。
先生に、「なんで、こんな奇妙な道の作り方をしたのですか」と尋ねると、「あれは回族の集落だ。道路建設(shè)予定地が集落を通過していたが、彼らは、予定地にモスクもあるといって、立ち退きにどうしても応じなかった。建設(shè)予定地になった他の集落は土地の提供に応じたのに、彼らはわがまますぎる」と怒っていました。
他の集落は當局による土地提供の要求に応じざるをえなかった。その回族の集落は拒否。當局も強くは言えなかったということでしょう。私は「當局は、イスラム教に配慮したのだろうな」と感じました。他にも、イスラム教徒への配慮を感じた事例はあるのですが、長くなるのでこのあたりにしておきましょう。
▼イスラムへの「気遣い」は外交面での配慮もあった
當時の共産黨政権がイスラム教徒に気を使った理由としては、國內(nèi)の安定を優(yōu)先したことが考えられます。また、それ以外に外交面での配慮があったと考えられます。冷戦期を通じて、中國はイスラエルを非難し続けました。何しろ、朝鮮戦爭を戦い厳しく対立していた米國の同盟國ですからね。そして中國はイスラエルと対立していたアラブ諸國やイランとの関係構(gòu)築に努めました。
アラブとイスラエルの関係を難しくしているのが、いわゆるパレスチナ問題です。パレスチナが1988年11月15日に獨立を宣言すると、中國は同月20日に國家承認をして外交関係を樹立しました。中國がイスラエルと外交関係を樹立したのは1992年1月で、パレスチナとの國交開始から3年あまりも遅れました。
中國國內(nèi)のイスラム教徒の不満が高まって抗議行動が発生し、中國當局が力で弾圧するといった事態(tài)は、中國當局にとって「目にしたくない」事態(tài)だったはずです。何しろ、イスラム教の権威ある組織や宗教人が「中國共産黨はイスラムの敵である」などと言った場合、世界戦略が根本的に崩れてしまう恐れもあったわけです。
▼中國は「パキスタン?イスラム共和國」とも親密な関係を維持
中國のイスラム教絡(luò)みの外交では、中印関係の問題があります。中國は建國してから間もないころを除き、インドとは敵対的な関係でした。領(lǐng)土を巡る戦爭もしており、現(xiàn)在でも緊張が高まることがあります。インドは一方で、パキスタンとの対立を続けています。実際に何度も戦爭をしたほどです。
そこで中國はインドをにらみつつ「敵の敵は友」との理由で、パキスタンとは極めて親密な関係を構(gòu)築しました。軍事面でも密接な関係があります。このパキスタンも、考えてみればイスラム教國です。正式國名も「パキスタン?イスラム共和國」としているほどです。
さらに考えてみれば、中國は自らを発展途上國と位置づけ、世界に多くある発展途上國の利益を考慮すると主張する外交を続けてきました。最近では対米外交を「大國外交」と言ったりしていますが、それでも発展途上國としての立場を貫いています??激à皮撙欷?、アフリカや中央アジア諸國にはイスラム教國が多いのですから、中國は世界戦略の推進のためにも、イスラム教徒と「穏便」な関係を構(gòu)築した方が有利なはずです。
▼現(xiàn)在の規(guī)制や弾圧の強化で、社會の安定は保てるのか
ただ現(xiàn)在はどうも「共産黨の指導(dǎo)を核心とする」などと連呼しつつ、統(tǒng)制を相當に強めています。中國國內(nèi)のイスラム教徒にとっては息苦しい時代になってきているようです。過激思想にもとづくテロを?qū)g行したり準備している個人や団體を取り締まるのは當然でしょうが、それ以上に「男性のひげ禁止」など、イスラム教徒として當たり前の習慣も禁止されるようになったとされています。
その大きなきっかけは「天安門広場自動車突入事件」(2013年10月)「昆明駅暴力テロ事件」(14年3月)、「ウルムチ駅爆破事件」(14年4月)と2013年から14年にかけて、各地でテロ事件が発生したことでした。
テロ犯罪を容認することは絶対にできませんが、テロ多発の背景には「不當に弾圧されている。もはや耐えられない」と感じる人の増加があることは、歴史上の出來事がはっきりと示しています。
中國で、イスラム系の人々の當局に対する不満が高まりテロが発生。當局は力で押さえ込もうとする。そんな悪循環(huán)が見て取れます。不満は一時的に押さえ込まれても、いつ爆発するか分かりません。中國の社會が最終的に不安定になることは必然です。
私としては、中國當局がかつての食肉配給問題で示したように、あるいはさらに大膽にイスラム教信者に配慮した方が、社會の安定に結(jié)びつくと思えてなりません。絶対的大多數(shù)のイスラム系民族が「テロ行為はどう考えても間違っている」と思うようになってこそ、テロも撲滅できると考えています。
■筆者プロフィール:如月隼人
日本では數(shù)學(xué)とその他の科學(xué)分野を勉強したが、何を考えたか北京に留學(xué)して民族音楽理論を?qū)煿?。日本に戻ってからは食べるために編集記者を稼業(yè)とするようになり、ついのめりこむ。「中國の空気」を読者の皆様に感じていただきたいとの想いで、「爆発」、「それっ」などのシリーズ記事を執(zhí)筆。
1958年生まれ、東京出身。東京大學(xué)教養(yǎng)學(xué)部基礎(chǔ)科學(xué)科卒。日本では數(shù)學(xué)とその他の科學(xué)分野を勉強し、その後は北京に留學(xué)して民族音楽理論を?qū)煿?。日本に戻ってからは食べるために編集記者を稼業(yè)とするようになり、ついのめりこむ。毎日せっせとインターネットで記事を発表する?!钢袊慰諝荨工蛘i者の皆様に感じていただきたいとの想いで、「爆発」、「それっ」などのシリーズ記事を執(zhí)筆。中國については嫌悪でも惑溺でもなく、「言いたいことを言っておくのが自分にとっても相手にとっても結(jié)局は得」が信條。硬軟取り混ぜて幅広く情報を発信。 Facebookはこちら ※フォローの際はメッセージ付きでお願いいたします。 ブログはこちら
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