<コラム>世界一難しい中國の科挙試験、日本人で唯一合格したのはあの人

工藤 和直    2018年3月12日(月) 20時20分

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中國では官僚登用の制度として、1905年まで「科挙」と言う試験制度があった。その合格倍率は3000倍とも言われる。日本で司法試験が厳しいとか言われもせいぜい30倍である。寫真は筆者提供。

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中國では官僚登用の制度として、1905年まで「科挙」と言う試験制度があった。隋の文帝(587年)から始まり、清末期(1905年)まで1300年もの長きに渡り存在した官史任用制度である。多民族國家の言語思想を統(tǒng)一させる點(diǎn)では大きな効果があったが、20世紀(jì)の西洋列國の合理的な自然科學(xué)重視の中では、植民地主義に表される富國強(qiáng)兵の考えにまったく意味をなさず、清朝末1905年に廃止された。科挙の制度は3年に一度中國全土から四書五経を諳んじ、詩歌に優(yōu)れた人物を30名程度試験により合格させる制度で、受験資格の年齢制限はないが、女性(1853年太平天國時代に例外あり)や商人(李白はこの制限で受験資格なし)、前科者は受験資格がない。

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5歳にして試験は開始され、童試→郷試→會試→殿試の段階を経てようやく合格となる。その合格倍率は3000倍とも言われる。日本で司法試験が厳しいとか言われもせいぜい30倍(昭和50年代、合格者數(shù)は約500名)であることから、3年に一度司法試験上位5名だけを合格にするのとほぼ同じレベルである。合格したものを「進(jìn)士」と呼ぶが、合格は奇跡に近い。1300年間で596回の試験があり、平均合格者の年齢は36歳、最高では76歳の合格者もいた。試験は3日間一室に缶詰狀態(tài)で行われ、世界一難関な官僚登用試験であった。

學(xué)識(記憶力)のみを合否の基準(zhǔn)とするのが科挙制度であるがために、合格に必要な要素は、1)幼少の時代から學(xué)問に専念できる環(huán)境(裕福で親が官史など)、2)高価な書物の購入や塾通いが可能な裕福な家庭のみ、となる。それがために、中國の近代化を阻害した最大の要因となった。よく日本の明治維新と比較されるが、教育の原點(diǎn)は儒學(xué)であるがため、論爭的?創(chuàng)造的考えは嫌われた。しかも學(xué)問する者は一部の富裕層だけである。江戸期日本はほとんどが私塾であり、學(xué)問は多様化した。下級武士以下の一般の商人?農(nóng)夫でも機(jī)會があり、それを育成する機(jī)関もあった。下級武士は実用性?合理性のある學(xué)問を尊重したため、歐米の知識や蘭語?英語の導(dǎo)入に何ら抵抗がなかった。これが中國ではなかった。

殿試とは皇帝臨席で受ける試験で、この試験で合格者の順位が確定する。上位3名は、上から「狀元」「榜眼」「探花」と呼ばれ、このトップ合格者「狀元」は巨大な官僚機(jī)構(gòu)の最高位となる。1300年の長き時代、驚くべき事に596名しかいなかった事であった。それが権力と権威を併せ持つおかしな官僚社會となった。記録によると第一回目の狀元は、唐代622年の孫伏伽であり、最後は清代1904年の劉春霖となっている。

弊害多き制度とは言え、一地方都市蘇州市(呉県?長洲県?元和県?呉江県)に31名の「狀元」が生まれたという點(diǎn)では稀有な感じがする。1300年間に596名しかいないトップ合格者の5.2%が、なぜかこの江南の蘇州に集中しているからである。また、大蘇州市(昆山?常熟?太倉を含む)となるとさらに15名が増え、7.7%となる。また、596名を省別に分類すると、江蘇?。?9名)、淅江?。?0名)、安徽?。?名)、山東?。?名)ほかとなる。また特筆すべきは清時代260年間の狀元114名のうち、蘇州府出身は26名(23%)であったと記録されている。殿試の前に會試があり、その前に郷試がある。各試験でトップの者を郷試では“解元”、會試では“會元”、そして殿試では“狀元”と呼んだ。この3つをもトップ合格した者は三元と呼ばれる。麻雀の“大三元”はここに由來する。1300年の歴史の中、三元は14名誕生した。ここ蘇州では1名の三元が記録されている。

蘇州史上1人の三元は「銭ケイ(ケイ=啓の口が木)」清代1743年?1799年である(寫真1)。蘇州長洲県出身、無錫銭氏の後胤で曽祖父は1658年に進(jìn)士となっている家系だ。清乾隆帝時代1781年及第、38歳で三元となった。人民路が拡張する前、書院巷との交差點(diǎn)付近に1781年三元坊と言う牌坊門を記念に建立した。殘念ながら人民路の拡張工事で除去された。(寫真2)は昔日の牌門である。ただ周辺にあるバス停や最近出來た地下鉄駅に三元坊の名前が付けられている。銭ケイは三元どころか“六元”とも言われている。郷試以降は中央で行われるが、當(dāng)然故郷での試験を突破する必要がある。地方での試験は童試と言われるが、その三過程(県試?府試?院試)全てでトップ合格であった。この三過程トップを“小三元”といい、合わせて六元と言われる所以である。1300年の歴史の中で六元(全過程トップ合格)となったのは、蘇州出身の銭ケイと明代の黃観の2名だけである。中國史上最優(yōu)秀の天才と言えよう。(寫真3)は銭ケイ自筆の扇に書いた漢詩だ。

ちなみにこの難関な科挙試験に及第した日本人が1人存在する。かの奈良時代に遣唐使として吉備真?zhèn)浃椁热豕?9歳で長安に留學(xué)した「阿倍仲麿」である。玄宗皇帝に仕え、何度と帰國を試みたが果たせず、唐土で客死した(73歳、最後はろ州(ろ=さんずいに路)大都督、官位は従二品)。唐の太學(xué)で勉學(xué)し27歳で及第、わずか8年で難解な中國語経典を諳んじた日本人最強(qiáng)の大天才であった?!柑欷卧?ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」は、中國を去る送別の宴の折に詠ったといわれる(寫真4:百人一首より)。

この「狀元」の言葉は現(xiàn)代でも使われている。中國では毎年恒例の全國統(tǒng)一大學(xué)入試(通稱:高考)が年に一度一発勝負(fù)で行われる。昨年も6月7?8日の二日実施された。全國で939萬人が受験した。7月下旬に成績が発表されるが、その時に話題になるのは、省?市でトップになった「高考狀元」である。顔寫真入りで名前?出身高が報じられる。ちなみに本年の北京市の狀元は、【文化系狀元】孫一先(女)?精華大學(xué)付屬中學(xué)?704點(diǎn)(満點(diǎn)750點(diǎn))、【理科系狀元】劉倩蛍(女)?北京師範(fàn)大學(xué)第二中學(xué)?719點(diǎn)(満點(diǎn)750點(diǎn))と報じられた。北京大?精華大の合格最低點(diǎn)が680點(diǎn)である。また、大蘇州での狀元も同じく女性がトップであった。【文科系狀元】劉一懿(女)?蘇州外國語學(xué)校?404點(diǎn)(満點(diǎn)480點(diǎn))、【理科系狀元】金●(●=さんずいに瑩の火火が草かんむり)(女)?常熟中學(xué)校?420點(diǎn)(満點(diǎn)480點(diǎn))と 周萌(男)?呉江震沢中學(xué)校?420點(diǎn)(満點(diǎn)480點(diǎn))。かつて科挙制度では、女性の受験は認(rèn)められなかった。この実態(tài)を範(fàn)仲淹が知ったら何と思うだろうか。

■筆者プロフィール:工藤和直

1953年、宮崎市生まれ。韓國で電子技術(shù)を教えていたことが認(rèn)められ、2001年2月、韓國電子産業(yè)振興會より電子産業(yè)大賞受賞。2004年1月より中國江蘇省蘇州市で蘇州住電裝有限公司董事総経理として新會社を立上げ、2008年からは住友電裝株式會社執(zhí)行役員兼務(wù)。蘇州日商倶楽部(商工會)會長として、日中友好にも貢獻(xiàn)してきた。

■筆者プロフィール:工藤 和直

1953年、宮崎市生まれ。1977年九州大學(xué)大學(xué)院工學(xué)研究科修了。韓國で電子技術(shù)を教えていたことが認(rèn)められ、2001年2月、韓國電子産業(yè)振興會より電子産業(yè)大賞受賞。2004年1月より中國江蘇省蘇州市で蘇州住電裝有限公司董事総経理として新會社を立上げ、2008年からは住友電裝株式會社執(zhí)行役員兼務(wù)。2013年には蘇州日商倶楽部(商工會)會長として、蘇州市ある日系2500社、約1萬人の邦人と共に、日中友好にも貢獻(xiàn)してきた。2015年からは最高顧問として中國関係會社を指導(dǎo)する傍ら、現(xiàn)在も中國関係會社で駐在13年半の経験を生かして活躍中。中國や日本で「チャイナリスク下でのビジネスの進(jìn)め方」など多方面で講演會を行い、「蘇州たより」「蘇州たより2」などの著作がある。

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