<羅針盤>私と中國との出會い=印象深かった周恩來首相―立石信雄オムロン元會長

立石信雄    2018年3月11日(日) 5時0分

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私が初めて中國を訪問したのは、日中の國交が回復した1972年に、京都の経営者グループによる北京での「自動化展」の視察団に參加したときだった。そのときに周恩來首相にお會いできたのは、非常に印象深い思い出である。

私が初めて中國を訪問したのは、日中の國交が回復した1972年に、京都の経営者グループによる北京での「自動化展」の視察団に參加したときだった。そのときに周恩來首相にお會いできたのは、非常に印象深い思い出である。

周恩來さんは今でも多くの中國國民に尊敬され、慕われているが、オムロンの創(chuàng)業(yè)者である父?立石一真は、1974年に日本國際貿(mào)易促進協(xié)會京都総局が京都の嵐山に周恩來さんの石碑を建立した際に、副會長として協(xié)力したことがある。私自身も1994年から周恩來さんの出身校である天津の南開大學の顧問教授を務め、これまで5回ほど、特別講義をさせてもらっており、親子二代にわたる周恩來さんとの深いつながりを感じている。

中國政府の要人にお會いすると、スケールの大きい長期的なスパンで物事を見る方々が多いことがわかり、さすがに4000年という悠久なる歴史を持つ國の指導者だと感心してしまう。また、ビジネスはもとより、國際政治においても人間関係を大事にする、信義に厚い人々だということがわかる。

1996年の3月に訪中した折にお會いした呉邦國副首相も、創(chuàng)業(yè)者?一真の時代から引き継がれた20年以上にわたる中國とオムロンの関係を自ら指摘され、「今後も中國の発展のために力を貸してほしい」と述べておられた。この細やかな心遣いには感動したものである。

日中國交回復後、いち早く中國での事業(yè)に乗り出した當社は、1981年に上海華一電器廠という國営企業(yè)にマグネットーリレーの生産を委託して、中國での生産をスタートさせた。その後、1989年から大連で健康機器の委託生産を開始、1991年には獨資企業(yè)の形に発展させた。1996年には新しく開発が始まった上海の浦東開発區(qū)に3つの工場を相次いで設立し、2002年には広東省の深川に、さらに2005年には広州にも工場を設立した。

このように急速な成長を遂げることができたのは、中國の経済そのものの発展に負うところが大きいが、當社だけでなく、多くの日本企業(yè)にとって中國の存在が非常に大きなものとなってきていることは言うまでもない。

<羅針盤篇24>

  

立石信雄(たていし?しのぶお)

1959年立石電機販売に入社。1965年立石電機(現(xiàn)オムロン株式會社)取締役。1995年代表取締役會長。2003年相談役。 日本経団連?國際労働委員長、海外事業(yè)活動関連協(xié)議會(CBCC=企業(yè)市民協(xié)議會)會長など歴任。「マネジメントのノーベル賞」といわれるSAM(Society for Advancement of Management)『The Taylor Key Award』受賞。同志社大名譽文化博士。中國?北京大、南開大、上海交通大、復旦大などの顧問教授や顧問を務めている。SAM(日本経営近代化協(xié)會)名譽會長。公益財団法人日本オペラ振興會常務理事。エッセイスト。

■筆者プロフィール:立石信雄

1959年立石電機販売に入社。1965年立石電機(現(xiàn)オムロン株式會社)取締役。1995年代表取締役會長。2003年相談役。 日本経団連?國際労働委員長、海外事業(yè)活動関連協(xié)議會(CBCC)會長など歴任?!弗蕙庭弗幞螗趣违惟`ベル賞」といわれるSAM(Society for Advancement of Management)『The Taylor Key Award』受賞。同志社大名譽文化博士。中國?北京大、南開大、上海交通大、復旦大などの顧問教授や顧問を務めている。SAM(日本経営近代化協(xié)會)名譽會長。エッセイスト。

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