東日本大地震から7年、経済的に苦しい被災(zāi)者「いつ家に帰れるのか」―中國メディア

人民網(wǎng)日本語版    2018年3月14日(水) 20時20分

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7年前の2011年3月11日に発生した東日本大地震の際、津波により福島第1原発事故が起き、福島県の多くの県民が避難生活を余儀なくされた。

7年前の2011年3月11日に発生した東日本大地震の際、津波により福島第1原発事故が起き、福島県の多くの県民が避難生活を余儀なくされた。

筆者はこのほど、福島市飯坂町にある58世帯が暮らす3棟からなる仮設(shè)住宅を取材した。

今野壽美雄さん(53)夫婦はここで避難生活を送っている。今野さんの家は、福島第1原発から20キロの範囲にある浪江町に位置し、放射能汚染が深刻であるため、日本政府は今野さん夫婦がここで避難生活を送れるよう手配した。2015年までに、今野さん夫婦は5回も避難先を変え、最後にここに落ち著いた。しかし、今野さん夫婦はここ2年、経済的に非常に苦しい生活を余儀なくされている。

今野さんによると、現(xiàn)在自分の収入は無く、妻の年収が約70萬円。地震前は2人の年収は合わせて500萬円以上だったという。

避難生活が始まって以降、今野さん夫婦は主に被災(zāi)者に支払われる賠償金に頼り、時々アルバイトなどをして、なんとかやりくりしていた。

しかし、17年3月、日本政府は浪江町付近の避難指示を解除し、それに伴い賠償金も支払われなくなった。それでも、被災(zāi)後の福島県は経済が回復(fù)しておらず、仕事を見つけるのも困難な狀態(tài)だ。

今野さんの義理の両親も同じ仮設(shè)住宅に住んでいる。年金がある義理の両親の最大の願いは自分の家に帰ることだ。二人の家も浪江町にあり、放射能汚染が深刻であるため、11年7月に取り壊された。

家があった場所に帰りたいと切に願う義理の父親とは対照的に、義理の母親は戻ることに慎重な態(tài)度を見せる。浪江町の復(fù)興は進んでおらず、コンビニや病院なども少なく、生活は不便で、病院に行くのが難しいのが一番心配という。

日本メディアの報道によると、東日本大震災(zāi)の被災(zāi)者は、地震によるダメージからまだ完全に立ち直ることはできていない。それでも、東京電力福島第1原発事故の被災(zāi)者らに対する東電の家賃賠償と避難に伴う精神的賠償が今年3月で打ち切られる。(提供/人民網(wǎng)日本語版?編集/KN)

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