如月隼人 2019年9月29日(日) 9時(shí)50分
拡大
日中は1972年9月29日に國(guó)交を樹(shù)立した。寫(xiě)真は天安門(mén)。
中國(guó)の首都、北京を訪問(wèn)した田中角栄首相と中國(guó)の周恩來(lái)首相は1972年9月29日、「日本國(guó)政府と中華人民共和國(guó)政府の共同聲明」に署名し発表した。同聲明により、日本と中華人民共和國(guó)の國(guó)交が樹(shù)立された。
日本は1952年、すでに臺(tái)灣に撤退していた中華民國(guó)と「日本と中華民國(guó)との間の平和條約」(日華條約)を結(jié)び、國(guó)交を樹(shù)立した。その後も米國(guó)に歩調(diào)を合わせて、中華人民共和國(guó)を認(rèn)めない態(tài)度を続けていた。報(bào)道などでも中國(guó)を指す場(chǎng)合に「中國(guó)」という名稱(chēng)を使わず、中國(guó)共産黨の略稱(chēng)である「中共」を用いていた。
日本と中國(guó)の経済分野を含む交流は、民間ベースで進(jìn)められていた。一方で、1970年代までには西側(cè)諸國(guó)にも中華人民共和國(guó)を認(rèn)める傾向が広まっていた。
日本にとって衝撃的だったのは、ニクソン米大統(tǒng)領(lǐng)が1972年2月に中華人民共和國(guó)を訪問(wèn)し、雙方が國(guó)交正?;讼颏堡婆Δ工毪长趣蛐预筏郡长趣坤盲俊C讎?guó)からの事前連絡(luò)がなかったことで、日本は一層の衝撃を受けた(米中の國(guó)交樹(shù)立は1979年)。日本では、中國(guó)との関係を正?;工伽趣问勒摛螭い烁撙蓼盲?。
1964年から72年7月7日まで政権を擔(dān)當(dāng)した佐藤栄作首相は、政権末期には中國(guó)との國(guó)交樹(shù)立の意向を示すようになった。しかし、中華人民共和國(guó)に國(guó)連議席を與え中華民國(guó)を追放する「アルバニア案」に反対したことなどから、中國(guó)は相手にしなかった。自民黨內(nèi)でも中華人民共和國(guó)との國(guó)交樹(shù)立には反対論が根強(qiáng)かった。
しかし中國(guó)との國(guó)交樹(shù)立を求める世論は極めて強(qiáng)くなり、佐藤首相が退陣を表明すると、日中の國(guó)交回復(fù)は次期政権にとって「解決せねばならない懸案」と見(jiàn)なされるようになった。
72年7月7日に首相に就任した田中角栄は日中國(guó)交正常化に向けた作業(yè)を急ピッチで進(jìn)めた。しかし自民黨には中國(guó)とのパイプがほとんどないという問(wèn)題があった。そのため、社會(huì)黨の佐々木更三委員長(zhǎng)や公明黨の竹入義勝委員長(zhǎng)が田中首相の依頼を受けて訪中し、さまざまな折衝を行った。
佐々木委員長(zhǎng)の秘書(shū)だった菊地董氏(後に衆(zhòng)議院議員)によると、中國(guó)の周恩來(lái)首相は田中首相の搭乗する飛行機(jī)が、まずは中國(guó)臨海部にある飛行場(chǎng)に著陸し、中國(guó)人パイロットが搭乗して操縦に協(xié)力することを提案したという。
當(dāng)時(shí)は日本から中國(guó)を訪れる場(chǎng)合、香港を経由することが「常識(shí)」だった。周首相が、田中首相の搭乗機(jī)が中國(guó)に直接乗り入れることを提案したのは、日本の首相に「遠(yuǎn)回りをさせることで面子(メンツ)をつぶすことのないように」との配慮だった。
また、技術(shù)上の問(wèn)題で実現(xiàn)はしなかったが、「中國(guó)人パイロットを乗り込ませる」ことは、船舶が交通手段だった時(shí)代に、相手國(guó)の船を友好的に受け入れ安全に到著させるための禮節(jié)にかなった方式だった。當(dāng)時(shí)の日本の政界上層部には、田中首相が「敗戦國(guó)の指導(dǎo)者として屈辱的な扱いを受ける」ことだけは避けたいとの考えがあり、周恩來(lái)の発言から「田中首相を敬意をもって歓迎する」との確証が得られたという。
菊地氏によると、周恩來(lái)首相からは経済関係については「古い友人を大切にする。新しい友人は歓迎する」との言葉も得たという。日本ではそれまで、日中貿(mào)易などを事業(yè)の中核とする「友好商社」などと呼ばれた企業(yè)が民間ベースで中國(guó)との取引を続けてきた。規(guī)模は小さくとも長(zhǎng)年にわたり中國(guó)との取り引きを続けてきた企業(yè)からは、「國(guó)交が回復(fù)すれば総合商社などの大手が乗り出してはじき出されるのではないか」との懸念も出ていた。周恩來(lái)首相の言葉は「これまで関係は忘れない」ことを示したもので、日本側(cè)の「古い友人」も大いに安心したという。
田中首相の中國(guó)到著は1972年9月25日だった。同日の交渉では「國(guó)交正常化を行うこと」「中華人民共和國(guó)側(cè)が日米安保條體制を是認(rèn)すること」「日本側(cè)が日華平和條約を終了させること」を互いに確認(rèn)するなど順調(diào)だったが、26日の會(huì)談は、一気に険悪な雰囲気になった。
大きな原因の一つは、田中首相は前日晩の歓迎宴で「過(guò)去に中國(guó)國(guó)民に多大なご迷惑をおかけしたことを深く反省します」と挨拶したことだった?!袱疵曰螭颏堡筏俊工蛑痹Uすると「添麻煩(ティエン?マーファン)」で、中國(guó)語(yǔ)としては軽いニュアンスになる。26日の交渉に臨んだ周恩來(lái)首相は強(qiáng)い怒りを示し、「うっかり女性のスカートに水をかけたときの軽い詫びの言葉」と同様と主張し、「中國(guó)では戦爭(zhēng)で數(shù)百萬(wàn)が犠牲となり、日本人民も深く被害を受けた」「『添麻煩』を詫びの言葉とすることは、中國(guó)人民として到底受け入れられない」などと述べた。
その後、日本側(cè)の戦爭(zhēng)責(zé)任について共同宣言に盛り込む文言についての交渉が行われ、「日本側(cè)は過(guò)去において、日本國(guó)が戦爭(zhēng)を通じて中國(guó)國(guó)民に重大な損害を與えた責(zé)任を痛感し、深く反省する」との書(shū)き方が決定した。
また共同宣言に盛り込む臺(tái)灣についての文言は「中華人民共和國(guó)政府は、臺(tái)灣が中華人民共和國(guó)の領(lǐng)土の不可分の一部であることを重ねて表明する。日本國(guó)政府は、この中華人民共和國(guó)政府の立場(chǎng)を十分理解し、尊重し、ポツダム宣言第8項(xiàng)に基づく立場(chǎng)を堅(jiān)持する」と、日中雙方の立場(chǎng)を併記することになった。
ポツダム宣言第8項(xiàng)とは、「カイロ宣言の條項(xiàng)は履行されねばならない。日本國(guó)の主権は本州、北海道、九州、四國(guó)さらにわれわれが決定する小島に限定される」の條文だ。さらにカイロ宣言の臺(tái)灣に関連する部分は「満洲、臺(tái)灣及び澎湖島のような日本國(guó)が清國(guó)人から盜取したすべての地域を中華民國(guó)に返還する」と書(shū)かれている。
つまり、日本は臺(tái)灣の所屬についての直接の判斷を避け、「中華民國(guó)に返還した」との事実を再確認(rèn)しただけということになる。
しかし、日本から「斷交」の扱いを受けた臺(tái)灣では、日本に対する失望と怒りが高まった。また、戦前からの臺(tái)灣住人、いわゆる本省人による「臺(tái)灣は日本に2度捨てられた」という言い方は、長(zhǎng)く伝えられることになった?!?度目に捨てられたのは日本が戦爭(zhēng)に負(fù)けたためでやむを得ない面があるが、2度目は日本が自らの意志で臺(tái)灣を捨てた」と言う人も珍しくなかった。日本に失望する聲も高まった。
【1972年のその他の出來(lái)事】
?パキスタンのブット大統(tǒng)領(lǐng)が核兵器開(kāi)発を宣言(1月)
?グアム島で元日本陸軍兵の橫井正一さん発見(jiàn)(1月)
?連合赤軍によるあさま山荘事件(2月)
?インドとバングラデシュが友好條約を締結(jié)(3月)
?モスバーガー1號(hào)店が開(kāi)業(yè)(3月)
?高松塚古墳內(nèi)部に「法隆寺壁畫(huà)に匹敵する壁畫(huà)」と発表(3月)
?川端康成が自殺(4月)
?米國(guó)が日本に沖縄を返還(5月)
?田中角栄通産相が「日本列島改造論」を発表(6月)
?日本航空機(jī)がインド?ニューデリーで墜落(6月)
?ホンダ?シビックが発売(7月)
?F-15戦闘機(jī)が初飛行(7月)
?大相撲夏場(chǎng)所で高見(jiàn)山が幕內(nèi)優(yōu)勝、外國(guó)籍力士として初(7月)
?カシオ計(jì)算機(jī)が世界初のパーソナル電卓「カシオミニ」発売(8月)
?ミュンヘン五輪事件、イスラエル人選手らが殺害される(9月)
?上野動(dòng)物園にジャイアントパンダのランラン、カンカン到著(10月)
?日本航空便がモスクワで墜落(11月)
?「最後のアポロ」(17號(hào))打ち上げ、有人月探査に成功(12月)
?東西ドイツが互いに國(guó)家承認(rèn)(12月)
■筆者プロフィール:如月隼人
1958年生まれ、東京出身。東京大學(xué)教養(yǎng)學(xué)部基礎(chǔ)科學(xué)科卒。日本では數(shù)學(xué)とその他の科學(xué)分野を勉強(qiáng)し、その後は北京に留學(xué)して民族音楽理論を?qū)煿?。日本に戻ってからは食べるために編集記者を稼業(yè)とするようになり、ついのめりこむ。毎日せっせとインターネットで記事を発表する?!钢袊?guó)の空気」を読者の皆様に感じていただきたいとの想いで、「爆発」、「それっ」などのシリーズ記事を執(zhí)筆。中國(guó)については嫌悪でも惑溺でもなく、「言いたいことを言っておくのが自分にとっても相手にとっても結(jié)局は得」が信條。硬軟取り混ぜて幅広く情報(bào)を発信。 Facebookはこちら ※フォローの際はメッセージ付きでお願(yuàn)いいたします。 ブログはこちら
この記事のコメントを見(jiàn)る
Record China
2019/9/17
2019/9/16
2019/8/3
2019/9/11
2018/9/14
ピックアップ
we`re
RecordChina
お問(wèn)い合わせ
Record China?記事へのご意見(jiàn)?お問(wèn)い合わせはこちら
業(yè)務(wù)提攜
Record Chinaへの業(yè)務(wù)提攜に関するお問(wèn)い合わせはこちら
この記事のコメントを見(jiàn)る