工藤 和直 2018年5月18日(金) 23時0分
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山東省膠済鉄道イ坊駅「イ=さんずいに維」から南へ車で40分、山東省イ坊市坊子區(qū)黃旗堡街道杞城村に「皇城頂遺跡」「杞國故城遺跡」という石碑が、桑畑の中にぽつんとある。寫真は筆者提供。
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山東省膠済鉄道イ坊駅「イ=さんずいに維」から南へ車で40分、山東省イ坊市坊子區(qū)黃旗堡街道杞城村に「皇城頂遺跡」「杞國故城遺跡」という石碑が、桑畑の中にぽつんとある(寫真1、2)。この一帯約280萬平方メートル(東西1600メートル×南北1500メートル)に、かつて杞國王城があった。杞國王は中國最古の「夏」王朝(紀元前2070年頃?紀元前1600年頃)につながり、國姓は「ジ」(ジ=女偏に以)であり、禹の末裔と稱した。商(殷)王朝(紀元前1600年頃?紀元前1046年頃)末に一度滅びるが、新興の「周」王朝により再興を果たした。「夏」王朝遺民が多く集う、弱小國「杞國」でもあった。
【その他の寫真】
杞國は、現(xiàn)在の河南省杞県(開封市)を起點とし、宋國→淮夷→徐國→曲阜南の滕県付近のチュウ國(チュウ=朱におおざと、鄒城市南東10キロメートルで一辺2.5キロメートルの城郭都市、紀王城ともいう)へと遷都(実態(tài)は夜逃げ同然)を重ね、紀元前751年頃に現(xiàn)在の泰安市に屬する新泰市、紀元前646年にはイ坊市に屬する昌楽県へ、最終的には紀元前544年に安丘市付近イ坊市坊子區(qū)黃旗堡街道杞城村へと都城を7回移し、距離にして約600キロメートル移動したとされる。「杞」國は國力に乏しく、周辺諸國との外交関係のなか、東樓公より20代の王が記録されている。この國は浮き草のように1500年間翻弄され、紀元前445年、楚によって滅ぼされた(地図1)。
「杞憂」(きゆう)という故事がある。無用の心配をすること、取り越し苦労をすることの意味に使われる。中國では昔、大地は正方形で四隅を天柱という柱が支えていると考えられていた。杞國の人は「天が落ち地も崩れたら身の置き所がなくなると心配し、夜も眠れず食べ物も喉を通らない」狀況になったことに由來する。くだらない話と言えばそれまであるが「天地が崩れるなどと、余りにも先の事を心配することより心を亂されない無心の境地が大切である」と言ったのが、この寓話に対する老子の後継者「列子」である。
杞國は商(殷)王朝、周王朝と続く統(tǒng)治の下で耐え忍びながら存続していくために、民衆(zhòng)のなかに「杞憂」のような極度に思い悩む心配性の高い人物が現(xiàn)れたのであろう。殘念ながらその杞國も、南方の強國「楚」に攻撃を受け、紀元前445年に攻め滅ぼされた。
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