八牧浩行 2012年5月8日(火) 6時21分
拡大
ユネスコ (國連教育科學(xué)文化機関)のパリ本部で長く勤務(wù)し、東アジア代表として北京事務(wù)所長を6年半間勤めた青島泰之氏はインタビューに応じ、豊富な國際的な體験、特に東アジア代表時代の中國政府要人らへの働きかけについて率直に語った。
(1 / 4 枚)
ユネスコ?。▏B教育科學(xué)文化機関)のパリ本部で長く勤務(wù)し、東アジア代表として北京事務(wù)所長を2008年まで6年半間勤めた青島泰之氏(現(xiàn)?日本技術(shù)者教育認定機構(gòu)?専務(wù)理事?事務(wù)局長)はインタビューに応じ、豊富な國際的な體験、特に東アジア代表時代の中國政府要人らへの働きかけについて率直に語った。(聞き手=八牧浩行Record China社長?主筆)
【その他の寫真】
――この道に進んだきっかけは?
小學(xué)校の時、札幌農(nóng)學(xué)校のクラーク先生の「少年よ、大志を抱け」に感動し、いつか自分は発展途上國で「クラーク先生」になりたいと思った。中學(xué)、高校に進んで進路を考えた時、ゼネラリストである外交官という選択肢もありましたが、途上國では教育、農(nóng)業(yè)、土木、行政の4分野が重要であると思い、大學(xué)では土木工學(xué)を?qū)Wんだ。大學(xué)院に進んですぐ、將來の恩師となる研究室の先生の計らいでスイス?ローザンヌ連邦工科大學(xué)大學(xué)に留學(xué)した。山岳國家スイスは橋やトンネル建設(shè)技術(shù)では世界最高水準だったのでとても勉強になりました。
スイスから帰國した時、大學(xué)の先生になるのは自分に向いていないと思い、日本鋼管に入った。パイプラインを海中に敷設(shè)する仕事に攜わり、とても面白かった。
――クラーク先生の話は忘れなかった?
32歳の時、「國連が職員募集」という新聞記事を読んだ。家內(nèi)が「あなたの人生の目標は何だったの?」と思い出させてくれた。國連の面接を受け、2年後にユネスコに採用になった。
7年の會社勤めは、大変楽しく、嫌になったから転職したのではないです。小學(xué)校の時に描いた「発展途上國の役に立ちたい」との考えが甦り、新たな道を選択した。
――日本は米國に次ぐ分擔金(12%)を國連に拠出しているのに、日本人國連職員は少ないですね。
國連職員は即戦力を要求され、空席があると募集がある。「課長クラスのポストが空いたので、このような學(xué)歴と職歴のある人を採用したい」という空席情報が出される。日本人でユネスコの仕事がすぐできる人は限られるようだ。個人の潛在能力の問題ではなくユネスコにマッチできるような仕事を日本で続けていくことがむずかしい。仕事は英語とフランス語の半々で行うが、會議の座長をするような幹部は両方できないと務(wù)まらない。私はスイス?フランス語圏のローザンヌに留學(xué)したのがよかった。フランス語を通してヨーロッパを見ていたようなところもあるので、ユネスコの組織に入りやすかった。
――國連のイメージは紛爭の解決とか各地域の治安、生活狀況の向上など、現(xiàn)場での活動が目立ちますが?
ユニセフ(國際連合児童基金)や難民高等弁務(wù)官事務(wù)所は現(xiàn)場が主體で、今日(こんにち)の問題が主対象。ユネスコはシンクタンクです。世界遺産の制度やルール創(chuàng)りを40年前に世界に向けて発信したのがそのいい例。識字の問題もそうです。ほとんどの職員がパリ本部におり、世界的枠組み作りをするのがメインの仕事です。
――15年もの間、本部で活躍したのですね。
現(xiàn)場に行きたいなと思っていた。僕は「參謀本部より連隊勤務(wù)」をやりたい方なので?!┈F(xiàn)場に出たいと思っていた。しかし、現(xiàn)場(地方)と本部の間の人事異動がほとんどなかった。皆、地方に行きたがらない。一度地方に出るとパリに帰って來られなくなってしまう。ポストも少ないから人事異動でどんどんやろうという習(xí)慣がなかった。人事部門に期待していたら永久に現(xiàn)場に出られないと思ったから、ジャカルタ事務(wù)所にいた同世代の人と、「數(shù)年後に、お互いに手を挙げてバーターしない?」と持ちかけた。うまくアピールして上司を納得させればいいと考えた。4年後に、上司に切り出したら、「面白いことやるな。よし分かった」と言ってくれた。
――インドネシアから北京へというのも珍しかったようですね。
ジャカルタに赴任して3年ぐらい経過した2000年ごろ、1999年にユネスコ事務(wù)局長に就任した松浦晃一郎さんと會った。「任期の4年経ったら職員は皆パリに帰りたがる。君はどうか」と聞かれたので「ずっと現(xiàn)場にいさせください」と直訴した。松浦さんは現(xiàn)場を大切にする方なので「おもしろい人ですね。どこに行きたい?」と尋ねてくれたから、僕はすかさず「北京に行かせてください!」と答えた。地方とパリ本部間の人事異動はあっても、地方から地方へという移動はユネスコでは珍しいケースでしたが、皆がいい人事だと言ってくれた。
北京事務(wù)所は中國、モンゴル、北朝鮮、韓國、日本を管轄する東アジアの代表事務(wù)所で、所長を務(wù)めました。
――北京駐在も通常より長かったとか?
北京に6年半いた。4年位勤務(wù)すると本部に帰るのが通例ですが、松浦さんに「君、頑張っているね。もっといろよ」といわれ、長期勤務(wù)となった。
國連組織で面白いのは、日本の組織と違って、完全にトップダウン。著任時の事務(wù)所職員は28人だったが、退職するときは40人にもなった。新人の採用、體制作り、新事業(yè)の開拓方針など所長の仕事です。彼等を縦橫につかって(と、いうより働いてもらって)、面白い仕事をたくさんやった。特に、少數(shù)民族の文化、教育の分野は面白かった。自分の専門(自然科學(xué))でなかったのでそれなりの勉強もした?!?/p>
――アジア各國に教育、文化、環(huán)境などでアドバイスしたり、多忙だったのでしょうね?!?/p>
ユネスコの地域事務(wù)所の主な仕事は途上國の人材育成。文化財保護なら、ユネスコが保存、修理をするのではなく、途上國が自力で保存、修理できるようにバックアップする それが出來るような法律の整備も手伝う。ハードよりソフトですね。
――中國の胡錦濤主席、溫家寶首相は就任する時は國際協(xié)調(diào)を唱え、意欲はあったが、民主化=政治改革は進まなかったようですね。実際溫首相はあまり進展しなかったと演説した。中國は米歐日の経済が失墜する中で、「一人勝ち」の高度経済成長を遂げ、自信を付けているようですね。
中國5000年の歴史で、漢民族は軍事力を使って周辺國を支配下に置くことはほとんどなかった。ただ、今の共産黨一黨獨裁のもとで軍事力を増強していくのは少し怖いと思う。民主化がうまくいけばいいが。
――日本はやはり中國などアジア諸國と仲良くしていかなければいけないと思う。経済も文化も、技術(shù)もそうだし。たまたま明治維新後前に進んでいて。日清?日露戦爭に勝って舞い上がった
日中の長い歴史の中で日本が中國より優(yōu)勢だったのは短い何十年の話でね。これからどうなるか分からない。日本は地盤沈下し、中國は上がっていくでしょう。長い歴史観のなかで日中関係を見なくてはいけない。そして、アジア全體の平和と発展を目指さなければいけない。
――中國とどう向き合うかが今後の日本外交の課題となると見る識者が多いですね。
私が大嫌いなのはアジイテイターだ。政治家と評論家にいる。勇ましいけど偏狹なナショナリズムを煽って、平和共存や経済相互発展という國際的な大原則を阻害している。
――大企業(yè)のトップのほとんどは「グローバル化が進む中でわれわれにとって國境なんてないようなものです」という考え方ですね。少子高齢化とデフレで衰退著しい日本國內(nèi)だけで商売していたら負けてしまうと。
企業(yè)は生き殘りを掛けて何でもする。工場の海外移転、優(yōu)秀な外國人の採用。しかし、日本の製造業(yè)の空洞化や日本の若者の雇用までは考えてくれない。
――まず情報を通じてわだかまりや偏狹なナショナリズムをなくすよう努力しなければなりませんね。
互いに行き來することが重要です。內(nèi)政がうまくいかない時、為政者は外に敵をつくって中を固める傾向にある。大きな敗戦の痛手を被った日本は今後おかしくならないようにしなければなりません。軍事力増強だけで國防を考えるのは愚作。近隣の國と仲良くなるのが最も確実な、費用の少ない國防です。
――北京駐在としての6年半というのは中國の高度成長時代ですね。中國全體が高揚した。最初に北京に行った二十數(shù)年前、地下鉄は1路線だけだったが、今は14路線もあり行くたびにその発展ぶりにビックリさせられます。
初めて出張で北京に行った1996年當時、車のラッシュアワーはなかったが、今は車洪水。最後の時(2008)はオリンピックに重なったから建設(shè)ラッシュだった。
――フ―トン(胡同=北京の舊住宅地域)は下町情緒豊かです。ユネスコは保護するよう働きかけましたね。
僕は北京市長に「胡同撤去と再開発問題で話をしたい」と會見を申し込んだ。なかなか実現(xiàn)しなかった。歐米の大使らも隨分とアプローチしたが、誰も會えなかった。
市長との會見は1時間半と言われ、実現(xiàn)した。しかし、市長が1時間半しゃべって、僕にしゃべらせない?!袱悉?、これで會見は終わり」と言うので、「あなただけがこんなに長くしゃべった。これからわたしの話を1時間聞け!」と言って、強引に會見時間を延ばした。僕は「胡同を撤去して再開発をするについて、北京市には住民參加という意識がない」と言った。結(jié)局けんか別れだったが、「共産黨獨裁の國でよく言ったな」と北京在住の大使らに言われた。ところがこの市長は、サ―ズ(SARS=新型肺炎)の対応の失敗で、僕と會見した3日後に更迭された。數(shù)カ月後にサ―ズが終結(jié)したということで北京市がパーティを開いた。新市長は王さんという人で、しっかりやって、今、副首相になっている。北京では共産黨書記が一番偉い。北京オリンピック組織委員長をやった李書記が會いたいという。行ったらまず報道関係者の前で握手をする寫真を撮られて、「胡同の話は聞いている。いろいろ助言してもらいたい」と言われた。
農(nóng)村から都市に出稼ぎに來ている出稼ぎ(國內(nèi)移民)の子供の移民先の就學(xué)権利が損なわれている。戸籍によって人民を土地に縛る法律は撤廃されたものの、子供は北京の公立學(xué)校に行けない。法律でそのような差別はいけないとうたっているので、入學(xué)は拒否しないが、本來無料であるべき授業(yè)料を色々な名目で有料にする。出稼ぎの親が払える金額ではない。ボランティアが集まって子供のための學(xué)校をつくって協(xié)力している。北京市教育委員會が、「これらの學(xué)校は世界基準から見て質(zhì)が劣っているから」との理由で學(xué)校を閉鎖した。僕は北京市の教育長に手紙を書いた?!袱长渭且庖娊粨Qをしたい」と。メンツを重んじる中國當局に対しでは「閉校した學(xué)校を再開しろ」という風に直截的に言ってはいけない。結(jié)局、意見交換なしで、學(xué)校は再開された。「不適確だけど続ける」と。ユネスコが何か言うとインパクトがある。だから僕はそれをやった。
――國連機関の代表とは言え、獨裁國家なので凄く勇気がいる行動ですね。
勇気は要りました。中國で共産黨幹部にたて突いたら國外追放だから。いろんな連中と飲んで話をして信頼感を作る必要もあります。幸い、僕はお酒が強く、茅臺酒、紹興酒でずいぶん乾杯をした。退職後、中國要人が「青島は厳しかったけど本當のことを言ってくれてよかった。とてもフェアだった」と言ってくれて。中國を批判することが目的ではないからね。いい國になってもらいたいと思って仕事をしましたね。
――どの國でも世界的な 教育とか普遍的なものに関して、アドバイスして全體をかさ上げすることが國連の仕事でしょう。
僕は必ずしもそうとは思わない?!钢袊悉猡盲热藰丐蛑丐螭袱毪伽馈工葰W米の政府、マスコミが言います。過去にアフリカ人をアメリカ大陸に拉致して奴隷にした歐米人が何を言うかと思います。歐米の人権は「キリスト教徒の人権」ですね。胡錦濤は「中國には中國の人権がある」と言っている。歐米イコール「世界」ではないです。人権にも多様な考え方が必要です。
――私は取材で赤道直下のガボン共和國(舊仏領(lǐng)赤道アフリカ)に行ったことがあるが、フランス人の政商が大統(tǒng)領(lǐng)と結(jié)託していて、竹の家と白いパンツ一つで生活している貧しい黒人たちを虐げていた。フランスは人権の國と言われているが、三色旗(自由?平等?博愛)は完全にダブルスタンダードだとショックを受けました。
インドネシアに赴任していた時、オランダによる植民地時代の話を聞いてオランダはインドネシア人を人間として見ていなかったと思った。オランダ東インド會社はインドネシア人が食べる最低の米は作らすものの、それ以外の畑をコーヒー栽培に替えた。ある時、飢饉が起きて米が獲れなくなり人口が半減した。
――中國がいいというわけではないが、「100年に一度の世界大恐慌」といわれたリーマンショックも中國がすぐに50兆円分を拠出して世界を救った形です。民主國家は物事を迅速に決められない。日本は首相が年に一度のペースで変わっている。仏もサルコジ大統(tǒng)領(lǐng)が負けたが米國でもオバマ大統(tǒng)領(lǐng)は盤石ではない。ドイツでは少し危険かもしれないが、歐米的な民主主義に疑問を呈する「體制の研究」まで出始めた。
中國はアジア危機の時に、グローバリゼーションに乗らなかったから守られた。日本は小泉政権の規(guī)制緩和の裏目が出て一番痛い目にあったと思う。グローバル化の名目で米國の要求を次々に受け入れ、日本古來の良さを捨ててしまっていた。世界のスタンダードなんてないと思います。歐米のスタンダードはあるでしょうが。歐米人の考えることは正しくて、進んでいて、だからそれを世界のスタンダードにしようとするのはよくない。今のグローバリゼーションは、アメリカの考え方が正しくて、進んでいるからそれに見習(xí)へというものです。
――確かに「日本の失われた20年」は理不盡な対日要求を受け入れさせられた結(jié)果もたらされた面がありますね。日本的な経営とかを崩せと言われ自ら放棄した結(jié)果が、格差拡大、非正規(guī)雇用増大などをもたらしましたね。
不幸だったですね。日本はもっと豊かだったと思う。
――ところでユネスコ世界遺産に富士山などが登録申請を計畫していますが認められますか。
容易でないと思う。富士山は美しい日本の象徴だが、あのようなコニーデ型の火山は世界には多く存在する。環(huán)境問題があり自然遺産での登録は難しいとしてあきらめた経緯がある。山岳信仰文化と結(jié)び付けて文化遺産に変更して、これからユネスコ世界遺産委員會に働きかけいく。富士山と似たような他の世界の山々と共同して景観と信仰をテーマにしてグループ登録を目指せば可能性はあるかもしれない。
<青島泰之(あおしま?やすゆき)氏プロフィール>
1947生まれ、靜岡高校卒業(yè)、東京大學(xué)工學(xué)部土木工學(xué)科を卒業(yè)し、スイス?ローザンヌ連邦工科大學(xué)大學(xué)院へ留學(xué)。75年日本鋼管(現(xiàn)JFE)入社。76年東京大學(xué)から工學(xué)博士號。82年ユネスコパリ本部に就職、事業(yè)予算管理課長、奨學(xué)金課長、科學(xué)技術(shù)計畫官などを歴任。97年ユネスコ?ジャカルタ事務(wù)所所長代理、2001年ユネスコ?東アジア代表?北京事務(wù)所長。08年靜岡市教育委員。2010年日本技術(shù)者教育認定機構(gòu)?専務(wù)理事?事務(wù)局長就任?,F(xiàn)在に至る。
「<インタビュー>日本の大學(xué)も企業(yè)も獨りよがり―青島泰之日本技術(shù)者教育認定機構(gòu)専務(wù)理事?事務(wù)局長(下)」に続く。
■筆者プロフィール:八牧浩行
1971年時事通信社入社。 編集局経済部記者、ロンドン特派員、経済部長、常務(wù)取締役編集局長等を歴任。この間、財界、大蔵省、日銀キャップを務(wù)めたほか、歐州、米國、アフリカ、中東、アジア諸國を取材。英國?サッチャー首相、中國?李鵬首相をはじめ多くの首脳と會見。東京都日中友好協(xié)會特任顧問。時事総合研究所客員研究員。著?共著に「中國危機ー巨大化するチャイナリスクに備えよ」「寡占支配」「外國為替ハンドブック」など。趣味はマラソン(フルマラソン12回完走=東京マラソン4回)、ヴァイオリン演奏。
この記事のコメントを見る
八牧浩行
2012/5/8
ピックアップ
we`re
RecordChina
お問い合わせ
Record China?記事へのご意見?お問い合わせはこちら
業(yè)務(wù)提攜
Record Chinaへの業(yè)務(wù)提攜に関するお問い合わせはこちら
この記事のコメントを見る