北京の工事現(xiàn)場(chǎng)で発見された石像、1856年に破壊された円明園の遺物か―中國

Record China    2018年6月6日(水) 15時(shí)50分

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北京市海淀區(qū)の工事現(xiàn)場(chǎng)で見つかった石像4點(diǎn)が、1856年のアロー戦爭で英仏連合軍に破壊された円明園の遺物である可能性が出てきた。寫真は円明園。

北京青年報(bào)など中國メディアは5日、北京市海淀區(qū)の工事現(xiàn)場(chǎng)で見つかった石像4點(diǎn)が、1856年のアロー戦爭で英仏連合軍に破壊された円明園の遺物である可能性が出てきたと報(bào)じた。

石像は龍または龍に似ているが角はない想像上の動(dòng)物であるチー(蟲へんに「離」のへん部分)をあらわしたもの。高さは90~100センチ程度。2017年2月に海淀區(qū)清河街道地區(qū)の工事現(xiàn)場(chǎng)で掘り出された。その他の石材も見つかり、現(xiàn)地行政機(jī)関の事務(wù)所で保管されていた。

清河街道地區(qū)の文化歴史顧問で、郷土史の「京北畿甸清河鎮(zhèn)」の著作もある杜沢寧(ドゥー?ザーニン)氏によると、工事現(xiàn)場(chǎng)の様子を見ていた際に、重機(jī)が大きな石を掘り出すのを見かけた。古い石材と直感し、重機(jī)運(yùn)転手に話して保管のための協(xié)力を得た。

石材から泥などを取り除いたところ龍またはチーの像と分かった。庶民の家で用いられていたものでないことは明らかだった。清河地區(qū)には古い橋があったが、當(dāng)時(shí)の寫真と照合したところ、その橋に使われていた石像ではないと分かった。また、清河地區(qū)には、石像が使われていた可能性のある建物が存在したこともなかった。

また、石像の材質(zhì)は「漢白玉」と呼ばれる、純白の大理石であることも分かった。非常に高価な石材だ。杜氏は、石像は現(xiàn)地から2~3キロの距離に位置した円明園の遺物である可能性があると思うに至った。

最近になり、複數(shù)の専門家が、石像は円明園の遺物の可能性が高いと考えるようになった。中國円明園の學(xué)術(shù)専門委員會(huì)の劉陽(リウ?ヤン)氏は、石像が円明園の「方壺勝境」で使われていた可能性があるとの見方を示した。斷定はできないが、1990年代に「方壺勝境」遺跡の整備を行った際に、よく似た石像數(shù)點(diǎn)が見つかっているという。

円明園は清の第5代皇帝の雍正帝(在位:1722~1735年)が造成した離宮。當(dāng)時(shí)は清朝の全盛期で、園內(nèi)には清朝に使えていた西洋人が設(shè)計(jì)した西洋風(fēng)の建物や噴水なども築かれた。ぜいを盡くした壯麗な建築群であり、4代皇帝の乾隆帝の勅命で當(dāng)時(shí)伝わっていた古典を整理し編集した10億字にも及ぶ中國史上最大の書物である四庫全書の正本のひとつも保管していた。

しかし、1856年に勃発したアロー戦爭で英仏軍が北京に侵攻した際、フランス軍が園內(nèi)に納められていた貴重品を略奪し、さらに英國軍が「捕虜が虐待?虐殺されたことへの報(bào)復(fù)」として建物などを徹底的に破壊した。その後は中國人が園內(nèi)に殘っていた石像などを持ち出して、売りさばいた例もあったとされる。

円明園は長期にわたって廃墟のままだったが、1984年に再整備が始まり、現(xiàn)在は一部が公開されている。

なお、円明園にあった四庫全書の一部は、フランスのフォンテーヌブロー宮殿に保管されているが、大部分はアロー戦爭の際に焼失した。四庫全書の殘りの寫しは臺(tái)灣の國立故宮博物院や中國國家図書館などが保管している。(翻訳?編集/如月隼人

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