Record China 2012年5月21日(月) 8時(shí)7分
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今中國(guó)で話(huà)題になっている二つの事件―薄熙來(lái)氏失腳と人権活動(dòng)家?陳光誠(chéng)氏問(wèn)題に、米國(guó)の駐中國(guó)総領(lǐng)事館?大使館が絡(luò)んでいることでもわかるように、民主化問(wèn)題において米國(guó)の存在が大きく関係している。寫(xiě)真は1980年代末まで臺(tái)灣の政治犯を収容していた緑島監(jiān)獄跡地。
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中國(guó)の民主化に関し対立する二つの見(jiàn)方を紹介し、その相対化に觸れた前回コラムには、批判的な反応もあったが、あえて引き続き民主化関連で書(shū)いてみることにしたい。前回も觸れたが、今中國(guó)大陸で話(huà)題になっている二つの事件―薄熙來(lái)氏失腳と人権活動(dòng)家?陳光誠(chéng)氏問(wèn)題に、米國(guó)の駐中國(guó)総領(lǐng)事館?大使館が絡(luò)んでいることでもわかるように、中國(guó)自身は內(nèi)政問(wèn)題と位置づけている民主化問(wèn)題において、米國(guó)の存在が大きく関係していることは明白である。特に薄熙來(lái)氏失腳事件は、英國(guó)人ビジネスマン殺害容疑が絡(luò)んだこともあり、もはや中國(guó)の內(nèi)政が今日では中國(guó)一國(guó)の問(wèn)題にとどまらなくなったことをも表している。さらに側(cè)近の王立人氏が重慶の米國(guó)総領(lǐng)事館に保護(hù)を求めたことは、米國(guó)の中國(guó)內(nèi)政への関與が今後は民主化から政治構(gòu)造そのものへと踏み込んでいく可能性を示した、とも考えられる。
【その他の寫(xiě)真】
ここまでの民主化?內(nèi)政への米國(guó)の関與を見(jiàn)て、私には思い出されることがある。それは1970年代?80年代末までの臺(tái)灣の內(nèi)政狀況と米國(guó)のそこへの関與である。
▽長(zhǎng)く続いた暗黒の時(shí)代
今でこそ臺(tái)灣は、若い世代にとってはF4に代表される華流の本場(chǎng)であり、今日(こんにち)では歐米から見(jiàn)た言論の自由度においても日本以上と認(rèn)定される場(chǎng)合もある。そんな狀況から見(jiàn)れば到底考えにくいことであり、今では現(xiàn)地臺(tái)灣の若年層も知らない場(chǎng)合が多いのだが、この島にも暗黒の時(shí)代があったのである。
おそらく「周知のように」と書(shū)いて良いと思うが、敗戦にともなって日本が撤収した後に臺(tái)灣を接収したのが中華民國(guó)政府であり、ここにつかの間の間、中國(guó)本土と臺(tái)灣は同一の國(guó)名のもとに統(tǒng)治される短い蜜月を迎えることになる。しかし內(nèi)戦に勝利した共産黨が中國(guó)本土を押さえ、敗れた國(guó)民黨が臺(tái)灣へと移転し、「正統(tǒng)中國(guó)」を名乗るようになったということもよく知られている事実である。
國(guó)民黨政権―というより今日的には蔣介石?蔣経國(guó)政権が正しいかもしれないが―は國(guó)際的には共産主義陣営に対抗する西側(cè)陣営のある意味模範(fàn)生として、日本の殘した様々なインフラ?制度をも利用しつつ、経済成長(zhǎng)を目指していく。一方、內(nèi)部的には日本色を払拭しつつ「正統(tǒng)中國(guó)」イデオロギーのもと事実上一黨獨(dú)裁を敷き、その反対者や獨(dú)立運(yùn)動(dòng)に対しては徹底した弾圧を加えていった?!赴咨匹怼工妊预铯欷胧址à扦ⅳ?、今日の中國(guó)における民主化弾圧よりもさらに激しいものであったかもしれない。それは1950?60年代まではまがりなりにも機(jī)能していたといえるだろう。
この狀態(tài)が破綻を來(lái)し始めるのが、日米中が接近し最終的には國(guó)交を樹(shù)立、つまり臺(tái)灣から見(jiàn)れば公的には日米と斷交することになる1970年代からである。「正統(tǒng)中國(guó)」路線(xiàn)が、臺(tái)灣に住む大多數(shù)のいわゆる本省人社會(huì)にとって間尺が合わないことが明らかになり、蔣経國(guó)政権が徐々に本省人人材を登用し始めた時(shí)期でもある。
しかしそれは一部の変化に過(guò)ぎず、統(tǒng)治機(jī)構(gòu)の外では、今日では再び野黨となったものの2000?08年までは與黨の座を得ていた民進(jìn)黨の結(jié)黨につながるような、主に本省人側(cè)による政治運(yùn)動(dòng)?社會(huì)運(yùn)動(dòng)が徐々に臺(tái)灣社會(huì)に根を下ろし始めていた。當(dāng)然こうした動(dòng)きには蔣経國(guó)政権は50?60年代と同様か、それ以上の弾圧を加えることとなった。
▽民主化介入策の先行例
ここに異議を唱えてきたのが米國(guó)である。1979年の臺(tái)灣関係法は、米中國(guó)交樹(shù)立=米臺(tái)斷交後の米臺(tái)間の実質(zhì)的関係を保証するための法律と解釈されることが多く事実また概ねその通りではある。だが、あまり知られていないかもしれないが同法第2條C項(xiàng)に「すべての臺(tái)灣住民の人権を守り、かつそれを促進(jìn)する合衆(zhòng)國(guó)の目的をここにあらためて表明する」ことも明記されているのである。このことはつまり、この時(shí)期なお民主化運(yùn)動(dòng)家や獨(dú)立論者への弾圧が臺(tái)灣で跡を絶たなかったことを逆に物語(yǔ)るものである。
しかし80年代に入ってもそれは止まず、中でも84年に「蔣経國(guó)伝」を書(shū)いた江南という作家が米國(guó)で、國(guó)民黨からの司令を受けたとされる臺(tái)灣のヤクザ組織により射殺された「江南事件」は米國(guó)の逆鱗に觸れた。1985年、時(shí)のレーガン政権は臺(tái)灣関係法第2條C項(xiàng)を受け「外務(wù)授権法」に署名、その中で特に「臺(tái)灣における民主主義」という項(xiàng)目を設(shè)け、臺(tái)灣における民主化を米國(guó)が「勧告する」という踏み込んだ表現(xiàn)で、民主化に介入していく姿勢(shì)を公言した。
これ以降、初の本省人総統(tǒng)?李登輝のもとで民主化が進(jìn)んでいったことはアジア政治に詳しい向きには周知の事実。臺(tái)灣內(nèi)部では、李登輝総統(tǒng)の登場(chǎng)(1988年)から民進(jìn)黨政権の誕生(2000年)という流れは、臺(tái)灣人自身の自助努力という點(diǎn)から評(píng)価される場(chǎng)合がほとんどである。もちろん、それはかなりの部分説得力を持つものであるとは思うのだが、では米國(guó)からの民主化圧力が全くなかったとすると、果たして今日の狀況につながるような民主化が臺(tái)灣で達(dá)成されたかどうか、かなり疑問(wèn)符がつくと言わざるをえない(臺(tái)灣のことだけを批判的に述べているようだが、日本においても「敗戦」がなければ米國(guó)主導(dǎo)の民主化もなかったことを筆者は忘れてはいない)。
そこで80年代末以降の臺(tái)灣民主化において、いわゆる內(nèi)発的な力と、米國(guó)をはじめとする外圧のいずれがより影響力を持ったのか、あるいはどのように絡(luò)み合っていたのかをより詳細(xì)に知りたいと考えている。いずれにせよ少なくとも臺(tái)灣の場(chǎng)合には米國(guó)の民主化圧力はある程度奏功したのではないかということだけはいえるだろう。
▽米國(guó)は臺(tái)灣での経験をどう中國(guó)に反映させるのか
以上やや長(zhǎng)々と80年代までの臺(tái)灣の內(nèi)政狀況と當(dāng)時(shí)の米國(guó)からの民主化圧力について述べてきたが、これと今日の中國(guó)が抱える狀況は、その複雑さや文脈の上からも、詳細(xì)に見(jiàn)ていくと確かにかなりの違いはあるはずだ。ただ、最近も中國(guó)で伝えられる民主化弾圧の報(bào)道を目にするたび、筆者にはこうした違いは捨象され、80年代までの臺(tái)灣の狀況、さらには戦前の日本の狀況までもが「いつかきた道」として思い出されるところが多い。
こうして弾圧が時(shí)代と地域により連鎖していくものならば、それに呼応する米國(guó)の民主化政策も連鎖していくはずである。つまり今日の米國(guó)による中國(guó)への民主化介入策は、完全に同じとはいえないまでも、80年代までの臺(tái)灣への民主化介入策と何らかの連続性があるはずではないか。より踏み込んで言うならば、米國(guó)は今日の中國(guó)への民主化介入策を策定する場(chǎng)合に、かつての臺(tái)灣に対する介入策を參照している可能性がかなり大きいのではないか。もちろん全く同じやり方を取っているとは言いがたいが、ひとまず同じ漢民族主體の社會(huì)として臺(tái)灣における先例を全く參照していないということは考えられない。
その參照の程度がどの程度なのか、どの程度臺(tái)灣での先行例を継続しているのか、あるいはデフォルメしているのか、デフォルメしているとすればどういった點(diǎn)をどのようにデフォルメしているのか、あるいはこれからしていくのか―知りたいところではあるが、少なくとも現(xiàn)在までのところ十分に解明されているとは言えないのではないか。米國(guó)の中國(guó)への民主化介入策が成功するのかどうかという點(diǎn)も含めて、もう少し時(shí)間的に「歴史」になる時(shí)點(diǎn)まで待ち、主に米國(guó)からの情報(bào)開(kāi)示がなされるのを期待したい?!?/p>
(本田親史/國(guó)士舘大學(xué)アジア?日本研究センター客員研究員)
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