Record China 2012年6月23日(土) 7時28分
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日本と臺灣海峽両岸を股にかけ中國語で「財神」とも稱された、臺灣生まれの実業(yè)家?作家の邱永漢氏(享年88)が逝去された。筆者はその3カ月前に偶然直接お會いする機(jī)會をいただいた。ご逝去が日本社會に改めて問いかけたものをじっくりと詰める必要があると考えている。
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5月16日、日本と臺灣海峽両岸を股にかけ中國語で「財神」とも稱された、臺灣生まれの実業(yè)家?作家の邱永漢氏(享年88)が逝去された。直前ともいえる約3カ月前に偶然直接お會いする機(jī)會をいただいた筆者は衝撃を受けたが、その衝撃以上に、氏のご逝去が日本社會に改めて問いかけたものをじっくりと煮詰めていく必要があると考えている。
【その他の寫真】
▽またも報道に違和感
その日も筆者はツイッターを何気なしに見ていた。自分自身を外部にアピールすることにはあまり興味はないが、最近はニュースなどもツイッターを見ている方が早くキャッチできる場合もある…といいながら時間つぶしに眺めていただけだったのだが、フォローしているある華字紙の情報に目が釘付けとなった。
「経済評論家、邱永漢氏が逝去」との報道だった。第2回で觸れた方勵之氏と同じパターンで知ることとなったが、今回はその時よりさらにショックが大きかった。というのも偶然ながら筆者はその數(shù)カ月前、たまたまだったのだが直接邱氏その人にお會いいただく機(jī)會があったためだ。
「あの時はかくしゃくとしておられたのに…」という思いにとらわれる間もなく、次々と日本國內(nèi)メディアも報じていることに気づいたが、日本社會における位置づけからすれば扱いが小さいのではないかという気もした。だが、もっと気になったのは「経済評論家」や「お金もうけの神様」といった面に焦點(diǎn)が偏っているように思えたことだった。確かに日本での文脈からすればそれらは間違ってはいないのだろう。だけど…という違和感が殘ることになった。
▽「ディアスポラ知識人」の先行者
しかし筆者も、中華圏や臺灣のことをある程度知っていなければ、こうした報道をさして引っかかりもなしにすんなり受け入れていたに違いない。66年生まれの筆者にとって邱永漢氏とは物心ついてだいぶ経ってから時折、テレビで見かける存在であり、それは株式動向などについてにこやかに解説する好々爺というイメージだった。
それが変わってきたのは恥ずかしながら前世紀(jì)末のことだった。1924年生まれの邱氏は年代からいっても日本の植民地統(tǒng)治経験者であり、舊制臺北高校から東京帝大経済學(xué)部という出世街道を歩みながら、當(dāng)時の臺灣あるいは日本で差別という植民地構(gòu)造を身體に刻みつけられた経験を持つ人なのである。そして日本の敗戦後は、その當(dāng)時の若い臺灣人エリートが多くそうであったように、臺灣獨(dú)立運(yùn)動に関わり、弾圧から逃れるべく香港で一時亡命とでも言うべき生活を送った。それが1956年の直木賞を受賞した「香港」という作品に結(jié)実するのである。
そういったことを初めて明確に知ったのは21世紀(jì)にもなろうとする頃、邱氏の初期作品について觸れたある文學(xué)評論を通じてであった。しかもその後日常に紛れて一時はそのことも忘れていたことも告白せねばならない。それが初期の作品を集中的に読んでみようという気にさせられたのは昨年臺灣関連のある授業(yè)を擔(dān)當(dāng)したためだ。特に植民地期臺灣についてはもともと筆者の乏しい書面上の知識だけではどうしても限界があり、生身の人間の感覚としてはどうであったのかを知りたいと思ったのである。
國共內(nèi)戦前後の混亂と青春期を送った日本に対する批判的眼差しが交錯する直木賞受賞作「香港」、臺灣出身者で初めてその座に就きながらも日本では人種差別からは逃れ得ず、臺灣に戻ってはその実直さがかえって災(zāi)いし1947年のいわゆる二二八事件の犠牲になった人物を描く「検察官」、後に臺灣獨(dú)立派の中心人物として活躍する人物で、學(xué)業(yè)のために戦後日本に外國人として密入國という手段を選ばざるを得なかったモデル自身の裁判資料にもなったという「密入國者の手記」…。絶版になっていると思しき作品もあるようだったがなんとか取り寄せて集中的に読んでみた。
個々の作品には、今なお臺灣に存在する中國志向と臺灣志向の葛藤や、戦前の朝鮮出身者と臺灣出身者の差異など興味深いテーマが描かれているが、なによりこうした一連の作品群に貫かれているのは、「國家」というものを希求しつつも裏切られ、現(xiàn)実的には自分の原點(diǎn)と信じるところからの離散を余儀なくされる、ちょっと流行りを過ぎた言葉で言うならば「ディアスポラ」の生き様である。
そして邱氏自身も臺灣獨(dú)立運(yùn)動からは離れたにせよ、その後は基本的に身を日本に置きながら、臺灣へと一時は戻り、その後は中國大陸を主たる展開先としてビジネスを進(jìn)めていく。その生き方自體が、自らが小説に描いていた人物とは表面的な様相こそ違え究極的には同様の「ディアスポラ」的なものに重なって見える。既に先に指摘していた人もいるが、邱永漢氏の初期の作品はこうした今日的な観點(diǎn)から読み直されるべきではないか―と私も昨年強(qiáng)く痛感したのだった。
▽「非ニッポン性」を直視しなかった日本社會
そのような文學(xué)的出自を持つ邱永漢氏は、ではなぜ今日、日本では「経済評論家」「お金もうけの神様」あるいは美食家としての側(cè)面だけが強(qiáng)調(diào)されるようになったのだろうか? そしてそのことをご當(dāng)人としてどう思っておられるのか―そのことは數(shù)カ月前にお目通りする機(jī)會を得た時に本當(dāng)はご當(dāng)人に直接うかがってみたかったのだが、やはりやや直球にすぎる質(zhì)問で、さすがにはばかられた。
そこで自分なりにそれを勝手に解釈してみると、それは何よりも、通常のいわゆる文人とは違ってご當(dāng)人にそういうご才覚があったということがあるだろう。當(dāng)時の文壇はそれを批判したそうだが、人間が霞だけを食って生きられないものである以上、そのことを批判することのできる者は筆者も含めこの世に一人もいないはずだ。むしろ筆者個人の見解としてはエコノミーの裏付けのない言説とは説得力のないものである。
ただ邱氏を取り巻いていた1960年代以降の日本では、その逆の、思想に裏付けられた経済活動というものが存在することへの想像力が欠如していたかもしれない。つまり邱氏の経済活動の前提として、上述のようなディアスポラ性があったことを理解できた人は日本では少なかったのではないか?
平たく言えばこのことは若き日の邱氏に対し、氏の言葉で言うところの「非ニッポン性」(『密入國者の手記』あとがき)の延長線上に展開される「文學(xué)」作品への依頼がおそらくは少なかったのではないか、という想像につながる。そのことは直木賞受賞前後の日々に、日本の時代物から「食は広州にあり」などのグルメものまで執(zhí)筆依頼を受け、當(dāng)初はお金関係や株関係の文章はその延長線で依頼されていたとするご當(dāng)人の述懐から容易に推察されるものである。
つまり、初期作品の延長線での執(zhí)筆依頼が少なかった、あるいは減っていったとすればそれは、「非ニッポン性」=戦前日本植民地體制が戦後の臺灣に遺した問題點(diǎn)を、かつての狀態(tài)を忘れ経済成長のみに邁進(jìn)していく戦後日本が直視しようとしなかったことの表れなのではないか―と筆者は考えるのである。
今日では日本語を母國語としない作家が日本の文壇でも次々と出てきており、そうした點(diǎn)でも邱氏は先駆者といえるのだろうが、現(xiàn)在と違って外國人名の登場する日本語小説は1950年代中盤から60年代にかけての日本の論壇におそらくは受容されにくかったのではないかという點(diǎn)もあるだろう。また、その後の日本語文壇に一定の市場を得た在日韓國?朝鮮人に比べ、在日臺灣人の作家またはその予備軍が數(shù)の上で市場を形成するまでに至らなかったのではないか、との仮説も立て得る。しかし何と言っても「非ニッポン性」を戦後日本が直視しようとしなかったことが一番大きな理由ではないかと筆者自身は考えている。
筆者としてはこういう推論を持っていたが、先にも述べたように、それを直接うかがうことははばかられたため、禮儀としても、初期の作品の名前を出してエピソードをうかがうにとどまった。邱氏はそれを過去のものとして否定するようなことはせずに、きちんとひとつひとつ誠実に答えてくださったと思う。
だがそれ以上に力を入れてお話くださったのが、これからのプロジェクトだった。最初にお會いしたイメージではお年相応にもお見受けしたのだが、今後のご自身のプロジェクトに話が及ぶにつれ、筆者にはその內(nèi)容は正直よくは分からなかったにせよ、どんどん頬が紅潮し心なしか背筋が伸び、たった一時間で何倍も若返ったような鮮烈な印象を受けたことは覚えている。
それだけにこのたびの訃報には筆者個人も「殘念だ」という思いがひとしおだ。心からご冥福をお祈りしたい。また併せて、特に氏の初期の作品については日本文學(xué)や臺灣文學(xué)の一部以外ではそう研究が進(jìn)んでいないように見受けられるので、今日的な観點(diǎn)からもきちんと研究が進(jìn)められていくことも願っている。
(本田親史/國士舘大アジア?日本研究センター客員研究員<PD>)
●寫真説明 1枚目=臺灣の地元有力紙?聯(lián)合報のサイトに掲載された邱永漢氏の訃報記事。日本の報道を単純に訳しただけの他地域の華字紙に比べ、思想的?文學(xué)的遍歴までも踏まえて詳細(xì)に書かれている。2枚目=直木賞受賞作の「香港」と初期代表作「密入國者の手記」などを収めた自選集第1巻
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