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満州事変前、日本國は舊満州地區(qū)に4カ所の総領(lǐng)事館と8カ所の領(lǐng)事館、そして12カ所の領(lǐng)事分館と全部で24カ所の領(lǐng)事館施設(shè)があった。寫真は筆者提供。
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満州事変前、日本國は舊満州地區(qū)に4カ所の総領(lǐng)事館と8カ所の領(lǐng)事館、そして12カ所の領(lǐng)事分館と、全部で24カ所の領(lǐng)事館施設(shè)を陰影していた。総領(lǐng)事館はハルビン?吉林?間島(延吉龍井)?奉天(瀋陽)、領(lǐng)事館はチチハル?長春?安東(丹東)?鉄嶺?鄭家屯(雙遼)?遼陽?牛莊(営口)?赤峰(現(xiàn)內(nèi)モンゴル自治區(qū))、分館としては農(nóng)安?通化?海龍?帽児山?掏鹿?淳化?牡丹江?佳木斯?綏芬河?黒河?白城子がある。
【その他の寫真】
戦前に中國大陸にあった日本國領(lǐng)事館は、舊満州の24カ所に加え、日本人租界地(上海?天津?漢口?蘇州?杭州?重慶?沙市?福州?アモイ)に9カ所と南京?鄭州?済南?青島?広州?徐州などに21カ所、唐山分館と大同?塘沽?坊子?張店?博山など5カ所の出張所、合計で60カ所が數(shù)えられる。
長春が腳光をあびるのは偽満州國成立時になる。1931年9月18日柳條湖事件に端を発して満州事変が勃発、関東軍により舊満州全土が占領(lǐng)される。その後、関東軍の主導(dǎo)の下に同地域は中華民國からの獨立を宣言し、1932年3月9日偽満州國を建國。首都を新京(長春から改名)とし、元首(偽満州國執(zhí)政、後に偽満州國皇帝)には清朝最後の皇帝?愛新覚羅溥儀がついた。また、長春領(lǐng)事館は「日本國駐新京総領(lǐng)事館」と昇格した。
満州は本來の表記では「満洲」である。當(dāng)用漢字に「洲」がないため「州」となった。満洲は本來地域の名でなく民族名である。清朝では、五行説の「水」徳を意識して、民族名?王朝名に「さんずい」を入れて、「満」「洲」「清」を選んだといわれる。
この長春領(lǐng)事館は1912年9月17日に竣工、総工事費15萬5千5百円、加藤洋行が施工した。加藤洋行は他に同時期に吉林?奉天?牛莊(営口)領(lǐng)事館をも施工している。また建設(shè)設(shè)計にあたっては、辰野金吾による建築設(shè)計であった。赤レンガの壁に白色の花崗巖を橫に配列する自由古典式の様相建築であった。地上2階?地下1階半の地下室があり、建築面積は1800平米である。上海路にある総領(lǐng)事館跡地は現(xiàn)在、吉林省政協(xié)弁公大院となり、新大院建設(shè)にあたり撤去された(寫真1)。ただ、上海路入口付近にある松林は當(dāng)時のままである。
奉天総領(lǐng)事館跡は瀋陽市和平區(qū)三経街9號に現(xiàn)存する。1912年7月に竣工、3萬4000平米の敷地を有する。三橋四郎設(shè)計による「辰野式」洋式である。1945年8月15日以降はソ連が領(lǐng)事館として使用、東北開放戦爭の折には、宋美齢が居た。1985年以降、現(xiàn)在の瀋陽迎賓館北苑となってホテルとして利用されている(寫真2)。西隣の八一公園內(nèi)には、英國?仏國領(lǐng)事館があったが今は建屋跡も一切ない。日本領(lǐng)事館の東側(cè)にはロシア領(lǐng)事館跡が現(xiàn)存する。奉天公園(現(xiàn)瀋陽市政府)の北に米國領(lǐng)事館があったが、現(xiàn)在は人民代表大會常務(wù)委員會になっている。
ハルビン駅を降りると紅軍街が通っている。南東に200メートル歩くとハルビン鉄道局外経貿(mào)公司の建物が街路に沿って建っている(紅軍街108號)。ここが、ハルビン日本総領(lǐng)事館跡である。1924年創(chuàng)建後、南満州鉄道ハルビン事務(wù)所として使用されたが、1936年に総領(lǐng)事館として再使用された(寫真3)。外裝のデザインは、ジダーノフによるものだ。
最後の総領(lǐng)事であった宮川船夫(1890年~1950年)は終戦後、領(lǐng)事館外交官?通訳29名とともにウクライナに強制連行され、モスクワで獄中死、悲劇の外交官となった。ソ連の対日參戦を予測していたのは、當(dāng)時の外交官の中では彼だけであった。初代総領(lǐng)事館は1907年3月4日に花園街に建設(shè)され、1909年伊藤博文をハルビン駅で暗殺した安重根が、しばらく軟禁された?,F(xiàn)在は花園小學(xué)校として使用されている。
もう一つの現(xiàn)存している総領(lǐng)事館、間島日本総領(lǐng)事館の建屋寫真を紹介したい。北朝鮮との國堺に近い延吉に近い龍井市六道河路869號にある総領(lǐng)事館跡である(寫真4)。間島は北朝鮮北東部にあり、偽満州國?ソ連との境界に近いだけに軍事上非常に重要な拠點であった。
長春と瀋陽には偽満州國時代の多くの日本建築物が殘され、そして今でも現(xiàn)役として使われている。政府関係建屋は市政府関係庁舎として、銀行は銀行、郵便局は郵便局、ホテルはホテル、學(xué)校は學(xué)校として、電信電話局はチャイナテレコムと言った具合だ。戦後、傀儡(かいらい)政権の建物であるが故に取り壊しも考えられた。文化革命時に破壊された建屋もあったが、多くは今でも使用されていることに驚きを感じる。この70年、民族傷痕として「撤去論」と文化財としての「保存論」が交錯し現(xiàn)在に至っているが、幸い使用価値としての有用性が優(yōu)位であったが故に、現(xiàn)在まで殘ったと思われる。舊満州に殘る日本建築物は、西洋式と東洋式を融和した獨特のもので、將來日中友好関係が進めば、世界文化遺産にしようと論議されることを信じる。
■筆者プロフィール:工藤和直
1953年、宮崎市生まれ。韓國で電子技術(shù)を教えていたことが認められ、2001年2月、韓國電子産業(yè)振興會より電子産業(yè)大賞受賞。2004年1月より中國江蘇省蘇州市で蘇州住電裝有限公司董事総経理として新會社を立上げ、2008年からは住友電裝株式會社執(zhí)行役員兼務(wù)。蘇州日商倶楽部(商工會)會長として、日中友好にも貢獻してきた。
■筆者プロフィール:工藤 和直
1953年、宮崎市生まれ。1977年九州大學(xué)大學(xué)院工學(xué)研究科修了。韓國で電子技術(shù)を教えていたことが認められ、2001年2月、韓國電子産業(yè)振興會より電子産業(yè)大賞受賞。2004年1月より中國江蘇省蘇州市で蘇州住電裝有限公司董事総経理として新會社を立上げ、2008年からは住友電裝株式會社執(zhí)行役員兼務(wù)。2013年には蘇州日商倶楽部(商工會)會長として、蘇州市ある日系2500社、約1萬人の邦人と共に、日中友好にも貢獻してきた。2015年からは最高顧問として中國関係會社を指導(dǎo)する傍ら、現(xiàn)在も中國関係會社で駐在13年半の経験を生かして活躍中。中國や日本で「チャイナリスク下でのビジネスの進め方」など多方面で講演會を行い、「蘇州たより」「蘇州たより2」などの著作がある。
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