木口 政樹 2019年10月25日(金) 23時0分
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今回は韓國のデモ文化についてである。寫真は韓國の反中デモ。
今回は韓國のデモ文化についてである。韓國のこのデモ文化。これはクールだ。なぜデモがクールなのか。市民が全員で力を合わせて國の姿をちょっとでもよくしようと団結するのがデモだから。最近の日本にはほぼ見れないクールな姿だ。
デモの話を書くには、その源流というものをあげないといけない。源流は、たぶん、朝鮮時代(あるいはその前から)の「コドゥオ ジュシ オプソソ」に辿り著くんだと思う。筆者の第一エッセイ集『おしょうしな韓國』にも書いたことなんだけど、この「コドゥオ ジュシ オプソソ」。(本コラム「日本と韓國のテレビドラマの違い」10月10日付けにも書いた)意味は「とりさげてください」という義。
王様がある方針を出す。それは民衆(zhòng)にはあまりにも厳しくかつ民衆(zhòng)に受け入れがたいものだとしよう。このようなときに、王をとりまく國の官僚(ヤンバン)たちが、王のいる建物の前の広場に列を作って座り込み、一晩中「コドゥオ ジュシ オプソソ」「コドゥオ ジュシ オプソソ」といいながら、王のその政策をやめさせようとする。すると、王は、一人自分の部屋で彼らの聲を遠くに聞きながら考える。これほどまでにやつらは「やめよ」というのか。そんなにこの政策がだめなのか。しかし王とて、自分なりに考え抜いて出した方針だけにそう簡単には「取りやめる」とは言えない。朝方、それでもヤンバンたちの王のやり方をたしなめようとする聲がやまず続いている。おもむろに王は出てきて、「わかった」という。そんな時代劇がこれまでに韓國のテレビの中に何度も出てきている。王に逆らう意見を部下が言うのである。
日本ならどうか。平安時代に天皇の意見に逆らえただろうか。あるいはサムライ時代に、徳川家康の方針に部下が反対意見を述べることができたろうか。たぶん、否だ。日本は受け入れる文化。韓國は王にでも逆らう文化(それが理に葉わぬときは)。
そしてこの伝統(tǒng)が今に受け継がれているのが、きょう日、毎日テレビを賑わしている100萬単位のデモ隊なんだと筆者は考えている。日本の人口の半分にも満たないこちらの國民が、100萬単位でデモをするのである。主張はそれぞれいろいろあるけれど、主張がなんであれ、このデモのエナジーはただ見ているだけでも爽快であり、あっぱれである。
この100萬単位のデモがきょう日急に発生したのではなく、これも源流がある。古くは上述のように「コドゥオ ジュシ オプソソ」であるが、現(xiàn)在に直で関係するのは、大統(tǒng)領選挙などに関して繰り広げられた一連の流れがある。
大統(tǒng)領選に関する內容がメインとなるので、まずは大統(tǒng)領の系譜について書いてみる。
(1~3代)イ?スンマン(李承晩)在任期間:1948~1960年
選出方法:1代:制憲國會議員による間接選挙で選出。2~3代:直接選挙で選出。
(4代)ユン?ボソン(尹潽善)在任期間:1960~1962年
選出方法:國會にて間接選挙で選出。
(5~9代)バク?ジョンヒ(樸正煕)在任期間:1963~1979年
選出方法:5~7代:直接選挙で選出。8~9代:統(tǒng)一主體國民會議にて間接選挙で選出。
(10代)チェ?ギュハ(崔圭夏)在任期間:1979~1980年
選出方法:統(tǒng)一主體國民會議にて間接選挙で選出。
(11~12代)ジョン?ドゥファン(全斗煥)在任期間:1980~1988年
選出方法:11~12代 : 統(tǒng)一主體國民會議にて間接選挙で選出。
(13代)ノ?テウ(盧泰愚)在任期間:1988~1993年
選出方法:直接選挙で選出。
(14代)キム?ヨンサム(金泳三)在任期間:1993~1998年
(15代)キム?デジュン(金大中)在任期間:1998~2003年
(16代)ノ?ムヒョン(盧武鉉)在任期間:2003~2008年
(17代)イ?ミョンバク(李明博)在任期間:2008~2013年
(18代)バク?クネ(樸槿恵*在任期間:2013~2017年
(19代)ムン?ジェイン(文在寅*在任期間:2017~2022年(現(xiàn)在)
以上、大統(tǒng)領の在任期間や選挙の方法などについてあげてみた。ちなみに筆者の書くものに韓國の大統(tǒng)領のことが出てくる可能性はこれからもかなりあるはず。読者の方々にも韓國の歴史として、大統(tǒng)領のリストを一度見ておくこともある意味、勉強にもなろうかと思う次第だ。
ここで、13代のノ?テウ(盧泰愚、在任期間:1988~1993年)から、全部、選出方法は直接選挙で選出となっている點に注目していただきたい。韓國は今も勿論大統(tǒng)領は直接選挙で選んでいるのだけれど、それは、昔からずっとそうなのではなかったのだ。1代目のイ?スンマンのとき、彼は1代、2代、3代の大統(tǒng)領になるわけだが、2代目と3代目のとき、かたち上は一応直接選挙となっているけれど、このときの不正選挙が目に余るものがあった。田舎にイ?スンマンの參謀が入り、お年寄りたちに金を渡して「イ?スンマン」と書かせたり、開票の場で、わざと停電にして、そのどさくさにまぎれて票を「イ?スンマン」と入れ替えたり、考えられるありとあらゆる方法で不正がなされた。
これに國民が爆発する。テグの高校生がその火蓋を切ってデモをはじめると、たちまち全國に広がっていく。(高校生ってのがすごい!)時の権力者に真正面から立ち向かう市民の戦いは、このときが近代になってからは最初である。1代から3代目までやりながらも、さらに第4代目の大統(tǒng)領にまでなろうとしたイ?スンマンであったが、結局、市民代表5人との面談で下野することを決心する。
そのときの5人のうちの一人のインタビューを見たことがあるが、大統(tǒng)領は部下からの意見は聞かなくなっていたため(部下も大統(tǒng)領には何も言えない雰囲気になっていた。いつの時代もどこの國でも同じ)、市民5人で編成した決死隊みたいな感じのグループが、直でイ?スンマンと向き合ったのである。5人を前にしてもはじめは一言もなかったイ?スンマンであったが、數(shù)時間の後、「國民がみな、自分に辭めろといっているのか」と5人に聞くと、5人ははじめから申し合わせてでもいたかのように異口同音に「はい、おりてください」と言ったという。
このときのデモによる大統(tǒng)領下野を「4.19革命」(サ?イルグ?ヒョンミョン)と呼んでいる。1960年4月19日の出來事である。このときの市民の犠牲者は統(tǒng)計があるだけでも186人にものぼった。とてつもない市民行動だったわけだ。このときの伝統(tǒng)がその後もずっと韓國には生き続けている。
民主化の流れは、1979年10月16日に起こった釜山馬山民主抗爭へと受け継がれる。當時の樸正熙大統(tǒng)領の獨裁に抗議する民主化デモである。釜山と馬山での動きが激しかったことからこの名がついている。10月20日ごろまで続いたデモは衛(wèi)戍令(えいじゅれい)の発令でいったんおさまるが、數(shù)日後の10月26日の樸正熙暗殺事件へと連結してゆく。キム?ジェギュ(金載圭)中央情報部部長が夕食時、ピストルで正面にいた樸正熙を撃ち殺した事件だ。
筆者もまだこのときは日本にいた。日本のテレビというテレビが全てこの事件で持ちきりだった。金載圭はすぐに捉えられ(逃げもしなかった)、數(shù)か月後の1980年5月に、まともな取調べも受けられないまま死刑となっている。本來この金載圭という人は英雄とされてしかるべきものであろう。
1980年5月18日の「5.18(オ?イル?パル)」=「光州事態(tài)(クァンジュ事態(tài))」でのデモ。軍の発砲による市民の犠牲。このときの市民のデモおよび犠牲によって、民主化という車輪をさらに前に回したのである。
そして1987年6月29日の「6.29(ユク?イ?グ)宣言」。これは時の権力者、民主正義黨代表の盧泰愚(ノ?テウ)が直接選挙制の改憲要求を受け入れて発表した特別宣言である。このとき以來、韓國の大統(tǒng)領選は必ず「直接選挙」の形態(tài)となった。
これらはすべて市民のデモ行動によって勝ち取られ勝ち得られたものであり、その伝統(tǒng)は今も連綿と生き続けている。
2002年のワールドカップのときの「テーハンミングク、チャチャン?チャ?チャンチャン」というあのリズムも懐かしいけど、あのときのロードビューで市民100萬人が街に繰り出し応援していた。あれはあのとき急に出來心ではじまったわけではなくて、こういう伝統(tǒng)が韓國には通奏低音のように脈々と生き続けていたということなのである。これがクールでなくしてなんであろうぞ。
話を大統(tǒng)領にもどすと、大統(tǒng)領を國民が直接選挙で選べる爽快さはどういった感じなのであろう。韓國で暮らしながら、ハスに見ているだけだけれど、そのダイナミックさ?爽快感?清涼感?躍動感は、はためにもよくわかる。(ちなみに、外國人には大統(tǒng)領の選挙権がない。妻の選挙に同行するのが関の山なのではあるけれども)。
わが日本はどうか。選挙で選べるのは黨であり(もちろん個人もあるけど)、いちばん多く票をとった黨の黨首が首相になる仕組みだ。議院內閣制といわれるものだけれど、國の長(おさ)を直接選べない歯がゆさは、いかなることばをもってしても表現(xiàn)しきれるものではない。隔靴掻癢とはこんなときのために準備されていることばなんだろうなと思う。いつか日本も國の長を國民が直で選べる時代がくるんだろうか。そのためには、國民の意識レベルがあと10段階くらいあがらないとだめなのかもしれない。(政治意識という點に関して)。
日本には日本のやり方があるんだと言う向きもあろうけれど、今の日本のやり方だって昔、だれかが決めたものにすぎず、いつだって代えられるシロモノだ。國の長は、國民の直の選挙で選んだほうがすっきりすることだけは、そういう経験のない日本の方々にだって、すぐにご理解いただけるはずだ。そんな日がなるべく早く來ることを願いながら、ちょっと長くなった今回の筆をおきたい。
■筆者プロフィール:木口 政樹
イザベラ?バードが理想郷と呼んだ山形県?米沢市出身。1988年渡韓し慶州の女性と結婚。元三星(サムスン)人力開発院日本語科教授、元白石大學校教授。趣味はサッカーボールのリフティング、クラシックギター、山歩きなど。著書に『おしょうしな韓國』、『アンニョンお隣さん』など。まぐまぐ大賞2016でコラム部門4位に選ばれた。 著書はこちら(amazon)Twitterはこちら※フォローの際はメッセージ付きでお願いいたします。
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